渋沢栄一 上 算盤篇

渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)

渋沢栄一 上 算盤篇 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

近代日本の「資本主義」をつくりだした渋沢栄一。彼がその経済思想を学んだのは、ナポレオン3世の統べるフランスからだった。豪農の家に生まれ、尊王攘夷に燃えた彼は、一転、武士として徳川慶喜に仕えることになり、パリ万博へと派遣される。帰国後、維新政府に迎えられるが。波乱万丈の人生を描く、鹿島茂渾身の評伝。


 約550ページと結構厚い本なので、なかなか読み始めても先が長いから、他の短い本から読もうと手を伸ばしてしまい、この本に手を伸ばす機会が少なく、結構読みやすい本ではあるのだけど読了までに大分時間がかかってしまったな。
 栄一は徳川昭武の随員としてフランスに言ったときにパリ万博を見た経験が、後に近代資本主義を日本に根付かせるのに大いに役立てた。しかし同じものを多くの武士が見たし、後には財務の勉強のために渡米、渡欧した者もいるが資本主義のエッセンスを見抜き、国家・民間の財政の実務を担当できたのは渋沢栄一ただ一人だった。ではなぜ渋沢栄一ただ一人のみが、世界の財政の仕組みの根幹を理解しえたのだろうか?と第一回はその疑問を示すところからはじまるが、それが確かにどうして彼一人が、と思わせるので一気に興味を引かれる。
 雑誌で連載していたので1回二十ページほどと短く区切られているし、各回の中でも小見出しでわけられているのでちょっとずつ読めるし、読みやすい。
 渋沢はフランスでサン・シモン主義の成果(精華)であるパリ万博を見たことで、理想を発見した。ただ、彼自身がサン・シモン主義の思想を文章で知ったり、理解したというのではなく、そのフランスの事物や制度を見聞きし、あるいはフランスでの人との交流によって、その本質を理解して日本でもそれを実行しようとしたということのようだが。サン・シモン主義はナポレオン三世の支配のもとで、皇帝自身もサン・シモン主義だったようだが、立ち遅れていたフランスの産業を一気に活性化させた思想。サン・シモン主義によって、フランスはプロテスタント諸国が1世紀かけた近代資本主義を短期間で実現するために『その根幹となる産業分野を一種の促成栽培的に作り出すシステムを開発して、これを上から社会の各分野応用しようと試みた』(P22)、そして成功したものなので、明治の日本にぴったり合う思想であり、それをフランスが実行していて、それを渋沢が見て理解して、渋沢が日本の官・民の財政に大きく携わる人間とならなかったら明治維新が順調な成功をして、発展することはかなわなかっただろう。
 本筋とは関係ないが、荻生徂徠は学問(儒学)を士大夫以上が修めるべきものとしたというのは、知らなかったのでへえ。
 渋沢は農民の出だが、生家は藍を買い入れて藍玉にして売る家業をしていたので半工半商みたいな家だった。家業を手伝っていたころ、栄一は渋沢家は金を貸している立場に武士にへりくだらなければならないという当時の常識に対して、憤慨したが、それは彼一人のことでなく、時代の風潮でもあった、かっちりと武士とそれ以外がわかれていた時代がこうした変革期に当たって揺らぎ始め、そうした風潮を栄一を含む若者はいち早く感じ取って感化されていたのだろう。
 渋沢たちは平岡に見込まれていたから、彼に一橋家の過信にならないかというスカウトを受けた。そこで渋沢は一橋家へ仕官するにあたって、直接慶喜に面会して、自分たちの意見を直接建言することを求めて、それが通ったというのは、それまでの江戸時代にない変化で、その後の幕藩体制の末路を知っていると崩壊の序曲に感じて、滅び去るものへの哀惜の念を覚える、少しだけどね。
 一橋に奉公するようになってから、一橋家の領地内で名誉ある人や孝子、義僕を褒賞した。それは単純な儒教道徳ではなく「地方政事の必要」という理由もあるからだったが、だからといって冷たい合理主義者であるというのは間違いで、そもそも合理主義は総合的なもくてきと結びついて効果を挙げる場合にのみ使える言葉で、最終目標にとって効果的・能率的かという問題で、暖かい冷たいという印象とは無関係のことなので、暖かい人道主義が合理的な場合や、計算づくの冷酷な処置がかえって非合理となる場合もあるという言葉は、ちょっと目からうろこ。
 幕末に渋沢栄一がフランスへ向かった頃までは、フランスでもぶどう酒はそのまま飲むのではなく、水で割って飲む習慣があったということなので、意外とぶどう酒をそのまま飲むようになるのは最近のことなんだね。
 ナポレオン三世やその首脳部の中では、父性的な善意の帝国主義植民地主義が不可分な一体のものとなっていた。
 山っ気のあるモンブラン伯爵は、日本人の同性愛者の恋人がいたということもあって、日本語ができたということを生かしてパリ万博での幕府からの人間に取り入って利権を探していたが、よからぬ噂を耳にした幕府がそれを断った。それをうらみに思って、幕府とは別に「琉球王」(日本の考えだとそんな考えはでてこないが、当時の国際法的には「ありうる」解釈だったため、「そうして」しまって利用した)・薩摩侯の名義でパリ万博に出品する薩摩側につくこととなり、パリの新聞などで薩摩の独自性をアピールして、そのことで同時に幕府も有力諸般の一つに過ぎないことを印象付けようとした。幕府と別口で出すことを幕府の抗議があっても認められた。
 フュルリ=エラール(フロリヘラリ)は、渋沢の著述に頻繁に登場して、恩人とされているのだがどんな人物かわかっていなかった。それを著者が、仏国在住の優秀なコーディネーターに依頼して、彼の親族への取材をした結果(それもかつての電話帳から珍しい名前である彼と同じ名字の人物に当たって、運よくそれがビンゴしたものだった)、彼がどんな人物だったのかを明らかにしていく過程が書かれているが、それはとても面白い。そして十八回、十九回は、彼の説明に紙幅を費やしている。彼はフランス外務省御用達の銀行家だった。
 渋沢が訪れた当時(1867年)には、フランスの金融システムは整備されていたが、その整備にかかった期間はきわめて短くナポレオン三世のクーデターの翌年1852年に、サン・シモン主義者のぺレール兄弟が銀行を設立してからだというのは驚く。そうやって出来上がったばかりの、時代を経て下手に余計なものがくっついていない状態だったから、渋沢も理解しやすかった、その本質を理解することがかなったという面もあるのかな。しかしナポレオン三世下のフランスは色々なものが近代化されていた整備されていた発展した時代だったというのは知らなかった。そうした意味である意味フランスは、少なくとも維新後の渋沢にとっては、良き手本となったのかな。どれくらいの明治人が当時のフランスのことを手本としたのかがわからないから、こうした「渋沢にとっては」なんて言い方になってしまうけど、これは素晴らしい成果を示した改革だし、非常に興味を引かれる大きく鮮やかな変化だ。
 「ナポレオン」三世という名前の信用があるから、クレディ・モビリエ社(20年でフランスの鉄道の長さを5倍にした)の社債は変われた。『ナポレオン三世の名前に含まれる「秩序と安定」のイメージがサン=シモン主義の三種の神器「株式会社、銀行、鉄道」を一挙に現実的なものにするのに貢献した。』(P251)そして、このような君主の「信用」に頼った経済的な革命は渋沢の手によって、日本でも繰り返される。
 フュルリ=エラールはサン・シモン主義者たちが作った銀行の銀行家ではなく、それに対抗して保守派が作った銀行の人。しかしサン・シモン主義者たちに立ち遅れて、サン・シモン主義者が作った小さなお金をたくさん集めて大きなお金として運用して、利益を配分するという枠組みの中で対抗するために作ったので、かえってサン・シモン主義よりもより現実的で洗練されたサン・シモン主義となった。そして渋沢はそんなフュルリ=エラールと交流したことなどから、サン・シモン主義の本質を学び取っていった。
 渋沢は使節団の会計と秘書をかねた役割で、その『会計事務の運用の過程で、フリュリ=エラールから与えられた商業知識を咀嚼することで、サン=シモン主義的な経済の原理を知るにいたるからである。』(P269)
 渋沢はフランスに滞在したたった一年半で帰納法的に、サン・シモン主義的経済システムを学び取ったのだから天才だな。
 維新後に藩制がいつ崩れるかもしれない不安定なものので、「英明なる仁心深き旧主」徳川慶喜のために、あえて彼の下で藩の職につかずに独自に金を稼いで、いざとなったら彼を援助できるようにしたいと思ったというのはいいな。落魄した主君に再開したときに、彼から受けた恩を返さなければと強く思ったというのは素敵だ。
 明治二年に渋沢の建議で発足した、各省庁を横断、超越する特別の建言を持つ改正係(局)で、渋沢は上司となった大隈重信とタッグを組んで大車輪の活躍を見せた。まあ改正係は巨大な権限を持ったから、それに文句を言う人も多かったが、大隈がまあ、結果を見てからにしろとなだめ、それかなわずかな期間で渋沢は大きな結果を残した。開設6ヶ月で『渋沢は文字通り、阿修羅のごとき活躍で、ほとんど一人で、財政、金融、地方行政、殖産、駅逓などの難題を解決していった。』(P378)というのは凄まじい。
 廃藩置県で藩札の処理について、井上馨のもとで渋沢は経済的混乱を避けるために獅子奮迅の活躍を見せ、彼の活躍のおかげで廃藩置県を断行しても経済的には大きな混乱をもたらさなかった。渋沢は、政府が借金を肩代わりして、公債を発行したが、この時の公債発行は日本で初めての試みだった。
 明治六年、大隈の下野とともに渋沢も官を退いて民間の経済人として、日本初の「経済人」として生きることとなる。そして『株式会社を個人的に組織するだけではなく、日本の産業全体のグランド・デザインを心に秘めて、あらゆる分野で資本主義の確立に乗り出した』(P500)。
 信用(クレジット)システムは、その重要性を知るものが日本に渋沢ただ一人しかいない頃から、渋沢が鋭意努力をした結果、やっとのことで日本に根付かせたもの。
 渋沢の経営者として手腕は、システムを理解し日本に移植したほどの冴えはないが、人材を抜擢して、その人材の権限を多く持たせることで成長させるタイプの人だった。
 また、彼は野に下ったといえど、単純に利益のためだけに仕事をする人ではなかった。
 海運業での渋沢・岩崎のダンピング合戦(両者相手が倒れるまでと意気込んで赤字が膨らむほどのダンピング合戦)となった苛烈な競争は面白いが、それは同時に「渋沢合本主義」と「岩崎独占主義」との戦いだったというのはへえ。その2社が共倒れになることを危惧した政府の仲介によって、結局両社を合併したが、それは良かったのやら悪かったのやら。