サイゴンから来た妻と娘

サイゴンから来た妻と娘 (文春文庫 こ 8-1)

サイゴンから来た妻と娘 (文春文庫 こ 8-1)

内容(「BOOK」データベースより)

特派員としてベトナムに赴任した新聞記者が出会ったのは現地の美しい女性とその娘。結婚して日本にやってきた彼女たちが繰り広げるカルチャーギャップと国際結婚の現実を描いた笑いと涙の作品。一九七八年に発表されるや大ベストセラーとなり、NHKドラマ化もされた名作の新装版。


 ベトナム戦争末期にベトナムに取材のため滞在していた著者は、そこで出会った女性と結婚した。著者と同年輩から少し年上で子持ちの女性で、彼女とは友人から紹介されて出会い、後に著者が宿を追い出されたときから下宿をすることになり、そこから深い付き合いがはじまった。彼女は家系上家長ということもあって、何人かの親戚が彼女の家にすんでいたり、あるいは出入りする親戚の人間も多かった。著者はそんな中で下宿していたということで、戦争中の民衆の生活を直接感じられることができる場所(下宿していた女性の家は「ごく中層の庶民階層」であるようだ)で生活するというずいぶん珍しい体験をしたのだな。しかし家長である後に著者の妻となる女性は家族に対して、相手が年上だろうとかなり絶対的な権威を持っているが、その彼女でも昔さんざん打たれたという経験があるから彼女の叔母のホオハア婆さんにはちょっと気を使っている部分もあった。ホオハア婆さんは年をとって丸くなったが、難しい人であるようだが、彼女に妙に気に入られて熱病にかかったときなどは煎じ薬を運んできてくれたりしたというのはちょっと面白いな。
 彼女の前の夫がその家に出入りして、その人と著者は妙に馬が合ったというのを見るとなんだか牧歌的というか、開放的というか不思議な感じ。いや、まあ、男女関係、婚姻関係を教条的に考えるからこそ、そんなことを感じるだけで、ようはお前の頭が固いのだといわれれたならばそうかなとも思うけど。
 著者が結婚を妻となる女性に申し込んだとき、彼女は結婚する前に寺の和尚のところへの相談して、その後占い師や暦の先生にも相談したが、そのときに前もってたくさん俺を払いますって言っておいたといったということには思わず笑みが浮かんでしまう。
 しかし著者は南ベトナムという国家が音を立てて崩壊していく場面に立ち会い、そのことについて書かれているが、国家の崩壊というのは現代日本人にとってはちょっと想像の範囲のできないことだから、壊れてなくなってしまったという事実を、その現場について書かれた文章を見ると不思議な感じを覚えて、またその光景が現実にあったと知っていてもなお非現実的なものに見えてしまう。著者は南ベトナムの崩壊を前に彼女とその娘を日本に脱出させた。その後の家族3人の日本での生活を書いた作品。ベトナム戦争という特殊な色合いがあるけど、結婚相手との異文化間の違い、カルチャーギャップを書くコミックエッセイみたいな面もあるので、読んでいてとても読みやすかった。
 ベトナム式の子育て・教育は、体罰を当然のように考えていたとずいぶんスパルタなものだなあ。まあ、他のベトナム人の子育て方を知らないので、彼女の家の子育てのメソッドかもしれないから、一般化するのは危険かもしれないが。子供のために早起きするなんてせずに、子供が朝起きて自分で学校へ行けとしているのはいいとして、学校までの道順を徒歩やら複雑な乗換えやらがあるのに一度だけで覚えさせて、それ以降は一緒にいってやらないというのは、まだ娘は日本に来て日が浅くて、娘は日本語ができる状態からは程遠いというのに(まあ、それはそうせよと命じている妻も同じだけどさ)、そんなことするなんて厳しいなあ。それを告げられて、悲壮な表情になっていたという娘のユンさんには同情してしまう。
 しかし子供に対する親しみをあらわした軽口かもしれないけど、子供ユーミンに対して、きちんとした人格を認めていたいのはちょっと不快に感じてしまう。まあ、当時はそうしたことが不自然と思うほうがおかしかったのかもしれないから、35年も前の文章のそうした細かな表現にけちつけてもしょうがないけどさ。戦前とか敗戦後すぐの文章なら別段そんな違和感を覚えなかっただろうから、微妙な近さだからこそ、そんな感じを受けてしまうのかもしれないな。
 ベトナムでは色恋の拗れでの刃傷沙汰がよくあり、裏切り相手や恋敵にガソリンを浴びせて焼き殺すというのが当時の流行(?)だったようだが、そのガソリン云々という話は開高健ベトナム戦記」でも見たが、それはベトナム人の色恋について情熱的な性質の裏面であるわけか。単に人心の荒みというわけではなく、いやそれもあるのだろうけど、それだけでなくもともとあった色恋での刃傷沙汰の延長線上のものだったのね。
 ベトナムは女性のほうが強い女権社会、つまり家庭では母・妻のほうが上に来るのが普通のようだ。
 もともと南ベトナムは気候がよく土地が肥えているため長く続いた戦争中も食には一切苦労しなかった。だからこそ四半世紀もの間の戦乱が続いていられるのではないかと思ったようだが、その考えにはちょっとなるほどと思えるな。
 日本に着てしばらくの間、ベトナムでは牛が安かったため良く食べられていたステーキや、日本に来てはまった刺身を良く食べていたから食費が大変なこととなり、それで妻はそれ以降食卓から姿を現さなくなったというのは、最初から強権的にとめるのではなくて、自分でそうした食事を続けていると金が持たないと悟らせたというのはなんかいいな。まあ、もちろんのこと日本ではそれらは高いということは言っていただろうけどね。
 日本でベトナムの食事を食べるために、色々と食材を探してきては調理して食べているのは場面は読んでいてとても面白いな。妻がホームシックに陥るのは、食事のことがほとんどだというのは、ある意味人間の真理であるが、ちょっとクスリとさせられる。
 妻は仔うさぎをペットとして買ったが、悪さをしたので結局食べてしまったというのは、ちょっと衝撃的。
 当時ベトナムでは色々なものについて、いくらした?と尋ねられることが多いが、それは定価がなく、値段についての情報量、知識量がないとだまされるため、そうした知識をつけるためにもそうやっていくらしたかについて聞くというのは、そんな因果関係があると走らなかったので意外だった。
 与那国島までボートで流れ着いた難民たち。正確には途中で台湾船に拾われてつれて帰ったのだが、台湾政府が彼らの受け入れを拒否したから日本の近くまで連れて行ったということだが、そうやって南ベトナムの難民たちが亡命しにきていた時代があったというのは知らなかったというよりも、ベトナムが併合されて、はい、おしまいと思ってしまっていた私の想像力のなさか。まあ、当時の日本人もベトナム戦争が終わったら関心なくなっていて、私と大差ない想像力しかないようだけど。そんな彼らを与那国島まで妻を通訳につれて、取材しに行ったときの話が1章設けられているが、それはなかなか面白い。
 南ベトナムは物資が豊かなのに、品不足に苦しめられ、密告と投獄の恐怖があり、さらに旧政権で大人になったものは半端ものと見られてしまうなどさまざまな困難があり、亡命する人が多く居たようだ。
『私は、口をきわめて共産体勢を罵るタン博士にあえて聞いてみた。
 「しかし、ベトナムベトナム人が将来、より公平で、より高度の幸せを築いていくためには、現在のような方法を取る以外ないんじゃないですか?」
 「そう、あなたは第三者だからおそらく正しい。しかし、私も生身の人間です。人生は短い。共産主義者は私が非党員としての過去を持つかぎり、一生私を信用しません。いくら国のため党のために働いても、ご用済みとなったら、捨てられることはわかっています。短い人生を、捨てられるために犠牲にするにはしのびません。最初は私も、ベトナム人によるベトナム人の政府ということで、現政府に希望を持ちました。でも、私がこの二年間で知ったことは共産主義者もまた人間だ、ということです。自分では、汚職、役得、怠慢、およそ人間的なことをしたい砲台しながら、他人の人間味をすべて無自覚による悪ときめつける。結局、絶望したのです」』(P211)タン博士のこの発言はいいな、すごく。本当に。
 ベトナムでは外貨不足に苦しんでいるため、金を郵送すればその金は中抜きされずに届くというのは、共産主義はもっと官僚主義的で、手元に届くときには目減りしているものだと思っていたが、そんな手癖が悪いことはやらないんだね。そして共産主義に成ったとはいえ、通信はできているのだね。なんか共産主義といったら、北朝鮮的イメージがあるからやたらめったら悪い想像を働かせて、少しでも普通にしてたらいちいち驚いてしまう(苦笑)。
 この本の続編みたいな本で面白そうと思った「バンコクの妻と娘」「パリへ行った妻と娘」という本があるようだけど、それらが現在品切れ?絶版?でamazonで購入できないのは残念だ。