渋沢栄一 下 論語篇

渋沢栄一 下 論語篇 (文春文庫)

渋沢栄一 下 論語篇 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

「どうしたら、永く儲けられるのか?」欲望を肯定しつつ、一定の歯止めをかける。―出した答えは、「論語と算盤」だった。大蔵省を退官し、五百を数える事業に関わり、近代日本経済の礎をつくった渋沢。事業から引退した後半生では、格差社会、福祉問題、諸外国との軋轢など、現代にも通じる社会問題に真っ向から立ち向かう。

 下巻では日本の強硬な対中政策、そしてアメリカ側の日本移民排斥の動きで関係が悪くなった日米関係修繕に、民間の立場から尽力していたことや家庭人としての側面など、経済人としての活動以外の渋沢栄一の活動が書かれている。
 そういえばこの巻の半ばで、渋沢には『論語と算盤』という公演集という著作があるということを知り、今まで上下巻にそれぞれ算盤編、論語編とつけているけど、それほど算盤と論語が印象的に出てくる場面もないからこの題名は何だろうと思っていたが、それから来ていたのね。下巻の半ばになって渋沢自身の著作が元ネタだということを知った(笑)。
 明治初年、武士階級出身の人たちは他人が作ったものを徴収すればよいという考えが抜けきらない中、渋沢はもともと経営農民(商・農)出身のうえ、彼はフランス滞在中にサン・シモン主義経済と出会い影響を受けた自覚のないサン・シモン主義者であるということもあり、日本改造のためには実業教育の確立が必要だと導き出すことができ、商業を勉強する学校を創設した。
 その商業教育について渋沢以外の同時代人は、商業の実用的な専門知識を得させればそれで良い、それ以上の教育を与えてインテリにさせてしまうと腰を低くして客に接する心を忘れるという意見がそれなりに多かったようだ。しかし渋沢は江戸時代の卑屈さを持った商人から、誇りを持った政府の人間であろうと対等に話せる商人(官へのコンプレックスのない人間)を作り上げることを目的としていた。そうした人間が必要だ、そうでなければ日本の発展に差しさわりがある、という意識を渋沢以上に持っていた人は当時いなかっただろう。
 渋沢は「自己の利殖を第二位に置き、先づ国家社会の利益を考へ」るというスタンスであった他の経済人(同時代人でも、後代でも)と一線を画する人間だったため、将来有望だが当分は赤字が出るような事業を積極的に引き受け、資材をつぎ込んで経営の立て直しを図った。また、他にも将来有望な事業について意中の人物に事業を興させたものも多く、月一以上のペースで企業の立ち上げに関連していたこともあり、生涯で500を超える事業に携わった
 養育院を作ったことは、仁愛的なものも当然あるが、それと同時に社会の害悪を未発にする、あるいは予防するために作ったと認識していることはいいね。渋沢はそういう言葉と姿勢を示すことで、そうした施設をきちんと作る重要性について啓発しているのだろうな。現在の経済人でそういった認識――そうした投資が現在・将来の社会的不安を減少、社会秩序をより安定的にさせるという認識――や、また「貧者を救うことで社会全体の出費という観点から見ても、経済的な節約に繋がるという社会政策的な発想」を持って、こういった施設を作ったり、あるいはそうした施設に寄付しているのはどれだけいるのだろうな。まあ、子供の貧困が問題になっているのだから、少なくとも国家的レベルではそうした渋沢の考えを現在でも軽視しているということはわかるのだけど(苦笑)。
 渋沢は最初叙爵されることについて、その爵位をもらうことに躊躇していたが、明治天皇の御衣だから拒否するのも難しかったため受けたが、民が官に懐柔され屈服するという印象を世論に与えないかということを憂慮していた。しかし叙爵祝賀会の加藤正義の祝辞の「是れ独り閣下の栄光のみにあらず、実に我が邦商工業界の一代光栄たるを信ずるなり」というフレーズを聞いて、叙爵は民が官に屈するのではなく、官が民の力を認めたのだ思い、そうした憂慮も消えた。
 渋沢はアメリカとの民間外交で、強硬な排日論者すら自分のファンにしたとはすごすぎる。彼はそれほどまでに魅力的な人柄だったようだ。
 アメリカ側から起こったドールプロジェクト(アメリカの子供たちから日本の子供たちへ人形を贈る)に対応して、日本側からは渋沢が中心となって特大市松人形をアメリカ側に贈ることになった。こうした有名な人形の交流に渋沢が関係していたとは知らなかったのでちょっと意外だったな。アメリカ側から贈られた人形は確か戦時中に燃やされるかなんかしたんだっけ、たしかそうした話をいくつかの小説とか本で見た記憶がある。
 商業道徳には「対顧客」と「対身内」の2つのベクトルがあり、対身内にも誠実第一が貫かれる必要があるが、外面ばかり良くて内面が悪い産業人が多いという著者の指摘には、そうした残念な思わず苦笑いを浮かべながらも首肯する。
 松方正義、緊縮財政・松方財政で日本を不景気にさせたというのでマイナスイメージが強かったが、不景気になると分かっていても信念を持ってバブル状態解消、そして外国から金を調達するのためにやりとげたというのは、渋沢も政策自体は評価して否いっぽいが、その断固として悪評を承知でやり遂げたことは認めているので、ちょっと彼への評価を改めた。
 渋沢が明治の財界人で最も高く評価していたのは、三井の三野村利左衛門、古川市兵衛(鉱山王)、田中平八(天下の糸平)の3人。
 渋沢以外の人は、論語と算盤(商売)を結び付けて考えていなかったので、「論語と算盤」とは決して明治人特有のものではなく、渋沢特有の経済思想であり(渋沢の父も論語の教養と藍玉販売で培った商人としての体験はあっても両者を和合して何かしらの思想を生み出すことはなかった)、彼独特の論語解釈であった。
 渋沢栄一の著作、彼が一番力を入れた最大の著作は『徳川慶喜公伝』という旧主の伝記。執筆者は別だが資料収集、証言集め、事実関係の確認などすべての段階で彼が陣頭指揮を執っている。この本は徳川慶喜の名誉挽回を目的として書かれたものだが、だからといって、そのために事実を曲げるようなことは一切していない。その伝記を作成するために義信本人から証言を聞きだす座談会をやっていたというのだから、豪華極まりないというか、なかなか他では考えられない状況のもとで仕事をしていた。
 渋沢は女性関係では妻妾同居なんてとんでもないことをやってしまうような人物で、同時に何人かの愛人を囲うということもやっていたようだから、ちょっとイメージとそぐわないが謹直で性的にも完全な節制を保っているというよりも艶福家だったみたいだ。
 渋沢の妻は雄雄しくも禁欲的な相当立派な人物であったようだな。
 渋沢栄一は子供たちとのコミュニケーションをとるのに、子供に本を読み上げさせていたようだが、半七捕物帳は徳に栄一を喜ばせ、またそのときばかりは母も座布団を持ってきて、そうした話を聞いていたようだ。どうやら江戸人にとってその小説は、郷愁の念に駆り立てられる特別な小説だったようだな。