運命論者ジャックとその主人

運命論者ジャックとその主人

運命論者ジャックとその主人

内容(「BOOK」データベースより)

人間は誰しも、次の瞬間にはどちらに転ぶとも知れない曖昧で危機的な生を生きていくしかない。この酷薄きわまりない世界認識を、一片の悲哀を混じえることなく、ひたすら快活な笑いをもって描ききったところに、この傑作の真骨頂がある。破天荒なストーリー展開・脱線につぐ脱線のメタフィクションクンデラブレッソンを魅了した18世紀の小説が新訳でよみがえる。

 亀山郁夫「あまりにロシア的な。」で、クンデラが18世紀の「最も偉大な二つの小説」としてスターン「トリストラム・シャンディ」とディドロ「運命論者ジャックとその主人」を挙げていることを知り、それでちょっと興味を持ったのでamazonで検索してみたら、amazonのその本のページで『人間は誰しも、次の瞬間にはどちらに転ぶとも知れない曖昧で危機的な生を生きていくしかない。この酷薄きわまりない世界認識を、一片の悲哀を混じえることなく、ひたすら快活な笑いをもって描ききったところに、この傑作の真骨頂がある。破天荒なストーリー展開・脱線につぐ脱線のメタフィクションクンデラブレッソンを魅了した18世紀の小説が新訳でよみがえる。内容(「BOOK」データベースより)』なんてことが書かれているのを見て、面白そうだと思い購入した。
 しかし冒頭の凡例に、この小説は『十八世紀ヨーロッパ諸国の王侯貴族を中心に回覧された雑誌『文芸通信』において、一七七八年十一月から一七八〇年六月にかけて連載された作品である。』(P3)というのはちょっと驚くわ、なんかすごいところで連載されていたのね。
 かつてはこうしたメタ・フィクションとか、突飛な作品なんていうのはよくわからなくともその普通の作品とは違う異形さを見ているだけでもうれしくなってしまい、楽しめたのだが、今は普通の形式で面白い物語のほうを読むほうがいいし、よく理解できないもの読んでも仕方ないとうようになってしまったから、いまいち楽しめなかったな。この本は登場人物が話すエピソード(主に恋愛話)がメインで、なぜか「読者」を聞き手に作者(あとがきによるとディドロに良く似た語り手の「私」だそうで、正確には作者ではないのかもしれないが)が語っている話もあるけど、それらの話は中断続きでなかなか終わらないが、そうして語られるいくつものエピソードの中で特に気に入ったというものもなかった(解説読むまで気づかなかったが、そうして語られる話のどれもが「異様で、残酷で、それゆえにいっそう痛切でもあるような裏切りや陰謀に行きついてしまう」ような暗い話だということも関係しているのかもしれない。)ので、そうやって語られるいくつかの話以外で、ジャックと主人の旅の過程に特段面白いストーリーがあるわけでもなかった。そのうえメタ・フィクションだったり、ジャックの話がさんざん逸脱していることをいまいち楽しめないとなるとどうしようもない。まあ、そうしたわけですっかり読むのが遅れてしまい、どちらかといえば読みやすい類の小説だとは思うのだが、あまり読み進めようという意欲がわかず、結局読了までに1ヶ月ほどもかかってしまった。しかし語られる話が「異様で、残酷で、それゆえにいっそう痛切でもあるような裏切りや陰謀に行きついてしまう」話であるのに、そんな暗さを感じず、気持ちが暗くなることなく読めたのは、会話という形でエピソードをしゃべり、途中途中で会話をはさんだりして語られている話について聞き手があれこれとその話の人物を論評したり続きを類推したり、脱線をしたり、あるいはさんざん作者がこれが小説だということを強調してくれたおかげかな。そうした意味では、こうした形式は暗い話をそうとは感じさせずに読ませてくれる、素晴らしい形式だったのかもしれないと、解説を読んだ後に思い直した。
 最初のジャックの恋についての話が、他の話を聞くことになってさえぎられたり、途中で主人が質問をすることによって別の話に脱線したり、話している最中にふと違う話を思い出してさっきまで話していた話を脇において別の話を始めたり、さらに作者自身が別の小エピソードを話しはじめたり、あるいは「私」(=語り手。≒作者)が「読者」と話したりして(「読者」が作中の話につっこみをいれて、それに対して「私」(=語り手。≒作者)が返答するという。ある意味本当の読者に突っ込ませないように、事前にそうやってつっこまれるそうなところにこういった形で言及して読者のつっこみを防いでいるのはなんだかちょっと笑ってしまう)、なかなかジャックの恋の話は進まず、結局主人とジャックとの会話では、本編では、最後にいたっても終わらなかった。最後には一応結末は付されているが、それもそうなったと確定して語っているのではなく「曖昧に宙吊り」されているので、その話の結末の真実は、本当のところは結局のところわからないまま。
 そして「作者」はこの場面はこうすることもできる、ああすることもできると、しようと思えばつけられたエピソードや展開について話したり、あるいは酔っ払ったジャックがちゃんと寝台で寝たのか、それとも床で寝たのかなんてどうでもいいことを曖昧にぼかして、そうすることで作者は地の文で小説/創作であるということをことさら意識させるようにしている。
 エピソードを物語っているときにその人に「主人」など聞き手から、相槌や疑問、あるいは罵倒なんかも書かれていて、非常に普通のリアルな会話みたくなっているのが面白い。やっぱ物語で階層とかエピソードを語るときは、普通その人が話終わるまで観客(聞き手)の反応が一切出てこない、あるいは出てきても偶に「○○ですって、たしかに〜ではありますがね」とかみたいなのがちょこっと出てくる程度だけど、物語っている途中途中で聞き手の質問などがさしはさまれているのは新鮮だ。
 そして当時の小説がまだ現在のような形に確立していなかったからなのか、台詞の前に一々戯曲のように、ジャック――○■▽だったり、主人――凸☆凹みたいにその台詞を話している人が誰なのか示されているのは最初ちょっと面食らったけど、数ページ読んでは本を置きという具合に寸断して読んでいたから、こうやって名前が書かれていれば誰がしゃべっているかについて混乱せずに読むことができたので、結果的にはそれがかえってありがたかったな。
 しかしジャックと主人の旅の終わりは、急転直下の展開で呆気に取られてしまう。