第一次世界大戦 忘れられた戦争

第一次世界大戦  忘れられた戦争 (講談社学術文庫)

第一次世界大戦 忘れられた戦争 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

一九一四年夏、「戦争と革命の世紀」が幕を開けた。交錯する列強各国の野望、暴発するナショナリズム、ボリシェヴィズムの脅威とアメリカの台頭…。ヴィルヘルム一世、ロイド・ジョージ、クレマンソー、レーニン、ウィルソンら指導者たちは何を考え、どう行動したのか。日本の進路に何をもたらしたか。「現代世界の起点」たる世界戦争を鮮やかに描く。


 この戦争のことについての本は読んだことがなかったので、おおまかなことしか知らなかったから、何かしら読まなきゃと感じていたので、ページ数的に短くまとまっていて、講談社学術文庫なので変な本ではないだろうと思い、この本を購入。
 この本では『軍事、内政などよりも国際関係が、外交関係が主題となってい』て、それを主にまとめているが、そうした第一次世界大戦にかかわった各国の政治的動きだけではなく、戦争が長引いたことでの国内での変化について(社会主義共産主義者たちの台頭)が書かれている、というか社会主義者たちの動きがかなり多く書かれている。また日本人の著者だからその間の日本の動きもフォローされている。そしてロシア革命についても結構な分量を割いている。
 皇位継承権を有するオーストリアフェルナンディド大公とその妻ゾフィーの夫妻がセルビア王国で暗殺され、オーストリアセルビアに対して独立国に対しては前代未聞といえる厳しい要求を突きつけ、それを前面受諾することを迫り、セルビアはその大部分を受諾することを認めたが、それを受諾拒否とみなして戦争が始まる。しかし暗殺された大公は、皇帝との関係は冷え切っていて、彼が暗殺されたことを知っても、オーストリアの宮中や皇帝は冷ややかで、とくに皇帝はセルビアに掣肘を加えよという神意を受け取ったとさえ言われている。そうした扱いを受けていたため、現地での葬儀には皇族の人間が一人も出なかったというのはびっくり。オーストリアは大公の暗殺を奇貨として、セルビアを懲らしめようと、その暗殺にセルセルビア政府が関与していることを期待したが証拠は見つけられなかった。しかしこの事件を口実にバルカンに勢威を伸張させようと、無茶な要求を突きつけ、戦争まで持っていった。
 セルビア民族主義者たちはセルビアの領土拡大の機会を二度までもオーストリアに阻止され、また多民族国家オーストリアとしてはセルビアの民族運動の高まりは国内の諸民族を刺激するもので、他方セルビアにとってはオーストリアの動きは民族主義の弾圧と見ていた。そんな中でフェルナンディド大公は、オーストリア専制主義の象徴として暗殺対象となった。
 ロシアはセルビアが敗北することでドイツ・オーストリアの勢力拡大を放置できず、また皇帝専制主義に対する国内の不穏な情勢であったため国民の目・不満を外にそらすために戦争に入るために総動員令を発令した。
 オーストリアはロシアが参戦することは予期し、またその同盟国であるフランスと戦うとしても、それらの国相手にドイツと共にあたる決心はしていたが、イギリスは中立を守るだろうと予想していた。
 しかし実際にはイギリスはドイツ・フランスがかかわるのであれば看過できないとドイツに警告したが、その態度を表明するのは既にドイツが戦争に向けて犀を投げようとしているときで少し遅かった。そしてドイツがフランスに攻め込むためにベルギー領に侵入して、イギリスはそのことを口実に参戦に国論を統一して、こうしてオーストリアセルビアのいざこざが、たちまちにして三国協商(フランス・イギリス・ロシア)対三国同盟オーストリア・ドイツ・イタリア)との戦いになった。のだが、イタリアは対セルビア戦は侵略行為なので、防御的な同盟規約は適用されないとして最初中立を宣言した。このように最初から予想外のことが次々と起こり、やがて当時の誰もが思いもしなかった大きな戦争となっていく。
 戦争がはじまったおりドイツやフランスの社会主義者の主流は政府の自衛戦争という名目に同調して、労働者・社会主義者の国際的連携がたたれ、彼らは社会愛国主義者となった。
 一方日本は第一次世界大戦で好景気に沸き、工業生産指数が1914年を100とすると、1918年には342.9まで伸びた。この4年で3.4倍という数字は思わず目をむき、いくら好景気とはいえ本当なのかと我が目を疑いたくなってしまう。しかしそんなに成長するというのは、その頃日本がいかに工業が十全に整備されていなかったかという表れだな。
 アラビアのロレンスことT・E・ロレンスは、ゲリラ活動でトルコ軍を悩ましたアラブ側にとって勇敢で優れた指導者であっても、『イギリスのアラブ政策やアラブ人反乱の本質的な面に、深い関係はなかった』(P67)。だが、イギリスにとって彼の活躍は、帝国主義戦争遂行のための現実的な政策を隠蔽する側面もそなえていたようだ。実際にパリ講和会議においてもアラブの代表ファイザルのシリア・メソポタミアパレスティナに広くアラブ人国家をつくることを主張を支持した。
 日本は1916年に日露協商で両国は戦前からの協調路線を強めたが、ロシア革命が起こったことで色々な安全保障的な皮算用が水泡に帰した。
 アメリカ参戦まで協商(連合)国・同盟国の工業力は同じくらいだったが、アメリカが参戦したとたん3対1となったというのは、流石のアメリカのチート具合だ。
 この戦争の最中に起こったラスプーチンの死は、貴族層・市民層には歓迎されたが、農民層にとっては、彼は『帝室に近づきえた最初の農民』である、その彼の暗殺だということで一種の「殉教」と受け取られたというのは知らなかったし、怪僧とイメージばかりが強いから、なんだか意外だ。
 ドイツ政府が亡命革命家をロシアに帰すことは効果的だと考えたため、レーニンは戦争中だったがドイツ国内に留まらないように封印列車での移動だったが彼のを通過を許可した。しかしこのことで同じくスイスに亡命していた社会主義者からも売国者と呼ばれ、ロシアに帰還して政治活動を始めてからもドイツのスパイだと彼の反対者は彼について批判した。
 シベリア出兵の原因となった、ソビエト内にいるチェコ軍は、もともとオーストリア軍に編入され、戦闘を強いられたチェコ、スロヴァク人の捕虜で、彼らを戦後の独立承認を飴に、フランス軍指揮下で対ドイツ戦で活用することをソ連も了承したが、反ソ的なチェコ兵士たちが内乱勢力と接近する恐れが生じ、実際に諸都市を占領して各地の反ソ連勢力と相呼応することとなった。それをソ連政府は危機を叫び、連合国はそれに対して干渉の良い機会だと判断して、彼らの救出を名目に掲げて、ソ連に対して干渉を行った。
 ロシアの皇帝一家の殺害、四女アナスタシア皇女の生存説も論じられてきたが、ロシア政府の調査で十一名全員の遺体が確認されたため、現在は全員死亡が確認されている。
 この世界大戦の講和のときに、『会議で伝統的なフランス語とともに英語が併用されたことは、アメリカを中心とする英語諸国国家の存在価値を示すものといわれる。』(P191)ということなのだから、それまでは国際会議などはフランス語で行われていたのか、もっと前から英語の地位が現在の一強とまでは行かなくても、フランス語と同等の扱いを受けているのかと思っていたのでちょっと驚いた。
 アメリカ大統領ウィルソンは講和に当たって無併合、無賠償的なことを考えて、勝利なき平和という状況にしてこの戦争を終わらせようと考え、ドイツも彼のその理想を信じたからこそ、講和に望むことを決めたのだが、実際は老練なフランスの首相クレマンソーの主張もあり、ドイツには意想外の厳しい講和条件を突きつけられることとなった。
 しかしソヴィエトは一時期、国土の3/4が自分たち以外の勢力(白軍や干渉軍)に占領されていたというのは驚くな。また当時は赤軍と白軍だけでなく、緑軍と称される赤軍・白軍いずれにも属さぬ山賊的な、賊軍まであらわれていた。しかし白軍は諸外国から援助を受けていて民衆からも人気がなく、また白軍と一くくりに言うが、その内部ではっきりと連携がとれているわけでもないから一枚岩ではないから、結局ソヴィエトが長くかからずに再度国土を支配下に収めた。
 ウィルソン大統領は国際連盟規約を議員たちから反対されたが、それでも一部を留保すれば通ったのに、そして通れば後の歴史も少なからず変わっただろうに、持ち前の理想主義者ぶりを発揮したため、アメリカは国際連盟に入らないという結果になってしまった。