民俗学の旅

民俗学の旅 (講談社学術文庫)

民俗学の旅 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

自らを「大島の百姓」と称し、生涯にわたり全国をくまなく歩きつづけた宮本常一。その歩みは同時に日本民俗学体系化への確かな歩みでもあった。著者の身体に強く深く刻みこまれた幼少年時代の生活体験や美しい故郷の風光と祖先の人たち、そして柳田国男渋沢敬三など優れた師友の回想をまじえながら、その体験的実験的踏査を克明かつ感動的に綴る。宮本民俗学をはぐくんだ庶民文化探究の旅の記録。

 いかにして民俗学の道に踏み入れ、歩んできたかを書いた自伝。最初は家の歴史や家族(祖父・父・母)・故郷などから、それぞれに1章を費やしながら書きはじめている。影響を与えられた人や場との出会いや関係、仕事の遍歴などが主に語られていて、家族や私生活についてはほとんど語っていない。
 250ページ弱という短い本だから仕方がないのだが、戦前戦後という時代時代の世相の描写が薄かったのは、そうしたものも期待していたのでちょっと寂しかった。
 渋沢敬三との師弟愛が描かれているが、とても素敵な関係だ。師を深く敬愛していることも、弟子をとても慈しみ、心配したり、心を配っているのが伝わってくるから。まあ、ちょっと老婆心じゃないかなと思わないでもないけど(笑)。
 旧正月の時にたくさんの餅をつき、その餅を水を入れた大きな水がめに蓄えて、それを必要に応じて出して、焼いて食べていたというのはへえ。水のなかで保存するというのは知らなかったのでちょっとびっくりした。どういう理屈で水の中で保存したほうが良いのだろうか気になるなあ。
 著者、昭和19年以外、毎年故郷に2、3回帰っているなど故郷と深い結びつきがある。
 5章の著者のふるさとでのさまざまな年中行事を中心にふるさとについて書かれているが、かつての村の光景・雰囲気が伝わってきて、いいなあ。
 旧暦では行事が終わると月が昇ってくる日に行事が行われていたが、新暦に行うようになると、そうした月夜との関係がなくなったため気分が出なくなった。行事と月の関係、考えたことがなかったがなるほどねえ。
 故郷で病気両々をしていたら、病気が良くなってきて、外でゆったり自然を味わう日々を過ごしていた。そんなある日、大便を催して林の中で用を足してら、その林に稲荷様の祠があったようで、病気治癒のため稲荷に参っているという噂が立ち。その後、健康も一通り回復して上阪したら、郷里では稲荷に参ったことで病気が治ったしてその稲荷が流行した。それについて『私は伝説などの根源をそこに見るような思いがした』(P82)というコメントを書いているのには、思わずクスリと笑ってしまう。
 渋沢のアチック・ミュージアムと、柳田の郷土生活研究所は空気の違いもあって、ちょっと別のグループに入ると疎遠気味になることが多かったけど、著者の仲介もあって、それがきっかけで自然と交流がそれぞれのグループにいる人が、他方のグループに出入りするようになったというエピソードはなんか好きだな。
 渋沢先生、日米開戦前から日支事変の泥沼化で、世界大戦の不可避と敗戦を予見して、それを宮本さんに言っていたようで、それだから以前から心の準備していたこともあってか、
著者の戦前戦後のギャップ、敗戦の衝撃と変化、を感じさせないな。
 渋沢先生に敗戦後、戦前検分したものを戦後につなぐパイプとなるように期待され、そうなってほしいといわれる。
 この本を見ると学者(書斎の人)ではなく、さまざまなことを見聞したり、戦後復興のために、農業指導をしたり、さまざまな農村の優れた技術を持った人を紹介したりといった活動を精力的にこなしていたり、あるいは林業金融調査会や離島振興協議会の仕事を奉仕でして、政治(というか行政か)の世界に半歩踏み込んで離島・山間などの集落を改善のために動いている姿などを見て、改めて活動的で外に出て現場を見る人だということを強く認識した。有名な著述家・学者というと、どうしても書斎・学会とかの活動がメインだという勝手な印象があるけれど。
 しかし、大学で講義するようになったのもかなり後年(50代になってから)だというのは意外。まあ、それは師匠の過保護さがもたらした結果だけれども。
 東京にいる期間は渋沢邸に食客として滞在したようだが、その期間が20年超と長かったというのはびっくりだな。本拠は大阪だか、郷里の家だかだから、いくつも家持てないし、長逗留するのにホテルと言うのも費用が掛かるから仕方ないことかなとも思うけど。
 古い習慣は僻地に残るのではなく、戦乱がほとんど起きなかった場所にこそ残る。