キスカ島 奇跡の撤退

キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯 (新潮文庫)

キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

昭和18年、壮絶な玉砕で知られるアッツ島の隣島キスカからの撤退は、完璧に成し遂げられた。陸海軍将兵5183名の全てを敵包囲下から救出したのだ。指揮を執ったのは、木村昌福海軍兵学校卒業時の席次はかなりの下位。だが、将たる器とユーモアをそなえ、厚く信頼された男だった。彼の生涯と米軍に「パーフェクトゲーム」と言わしめた撤退作戦を描く。



 キスカとアッツの隣の島同士で、アリューシャン諸島の島だったのか。大戦中に戦局的には意味のない、北の方の米国領の島をとっていたとは知っていたけど、それが有名な玉砕のアッツ島とは知らなかった。今まで島だから、てっきり南方での出来事だと勘違いしていたわ。
 アッツ玉砕後に、木村が指揮したキスカ撤退作戦は、米軍から「奇跡の作戦」「パーフェクトゲーム」といわれた、人事を尽くして天命を待った結果、幸運が味方して生まれた、奇跡的な全員救出し、そのことを相手に気取らせないというものだった。
 1895年、中等教育在学生のうち女子が占める割合0.2%で、大学・師範学校など高等教育を受けているのは0.0%と数字にならないほどしかいなかった。そうした時代の中で木村の母は高等教育を受けていたなど、開明的な家庭の出で、黎明期の女子教育者の一人だった。しかしこの時期の中等以上の教育機関における、こうした女子の割合を見るとあまりの低さに愕然とするな。
 しかし艦艇の名前は、艦コレはやっていないけどキャラはやる夫スレなどである程度見知っているので、そうして見知った名の艦艇が出てくると自然とそうしたキャラを思い出してしまうな。
 海軍兵学校ではハンモックナンバーと呼ばれる卒業席次は配属・昇進の基となったが、それには海軍創設当初薩摩閥を解消するために、そうした卒業席次に基づく序列制度が採用されたというのは知らなかったのでへえ。その順番でその後が決まるというのはちょっと違和感のあるものだと思っていたが、そうした理由によって作られた慣習だったのね。同様に長州閥の陸軍では、卒業席次は公表されないが、その代わりに陸軍大学校へ進学できる上位1割に入れるかが重要だった。
 木村、人情家で、屈託のない愛される人柄で、稚気のある人だったようだ。ただ、女児誕生で名前をどうするか電報で知らせたときに、直ぐに「なんでもよし」と変電したというエピソードや女遊びをしていたエピソードまで、彼の人間味を感じさせるものだという調子で語っているのは、ちょっとなあ。
 第二次大戦突入後、今までより格段に大きな船を任されるようになって、『艦長室には電灯が七つ、風呂もトイレも二つずつあり、階段は四十八段であまりに長いので、途中に踊り場さえある。』なんてことをいくつかの短歌の中に書いて、喜びを表しているという姿を見ると確かに稚気のある愛らしい人柄だ。そして、彼のちょっとしたエピソードを見ると、なんというかおじいちゃん的な和やかさを持ち、何でもかんでも命令するのではなく場合に応じて柔らかに諭すことができる人で、確かにその人柄が慕われるのもわかるわ。なおかつ部下が迷ったときには、自分が責任をとると明言したり(当然言葉だけじゃなくて実際責任取る)、危急の時にはどちらかを選んでくれる人なんだからそれは部下に慕われますわ。
 中盤は大戦中の話で当然のように負け続きだから気が滅入ってしまうし、木村の出番もあまりない。
 レーダーで測地・測深したりと日本軍、まったくレーダーを使わないわけでもなかったのね。ただ、ミッドウェー後でのキスカ島撤退時のときの描写だし、いつからそれなりに使われていたのか、それとも霧が立ち込めるその島に行くからこそ使っただけだったのかは知らないけど。
 万全を期しキスカ島の全員を救出するため、時期を見計らうも確実に成功できる機会が見つけられないうちに、燃料足りなくなり一旦撤退する。それで救援艦隊将兵からは不満のムードが高まるも、帰還後の彼らへの冷たい仕打ちと、木村に対する批判、彼に対するあてつけのような「長官同行」の措置に憤慨して、将兵の気持ちが木村の下に一つにまとまった。
 飛行機が飛来できないアリューシャン列島特有の濃霧が続く時間を待って、博打のような強行突入をせず、一度は撤退したものの、ついに2回目の救出作戦においてそのときが来て、全員救出。強迫観念的に銃を捨てないようにしていた日本軍において、すばやく彼らを艦に乗せるため銃を捨てさせまで、誰一人残さない全員救出にこだわり、そしてそれを成功させる。
 キスカ守備隊の面々が救援艦隊が救出に突入する連絡が来て、壕からでてその深い霧を見てひどく嬉しそうにしているのをみるとなんかうるっとくるな。
 作戦に関係した陸海軍の有能な人が呼吸を合わせて、木村の全員救出という目標を支えてくれたことがこの作戦成功の大きな要因だった。
 まあ、そんな撤退作戦も、お偉方にとってみれば陸軍海軍のパワーバランスの中で資材・予算確保のための政争の道具と考えていたようだが。
 第二次大戦、戦況の悪化が中盤でつらつらと書かれていたから、その分だけ米軍をだしぬいた痛快さが光る。相手がレーダーで島を日本艦隊と間違えて攻撃して撃墜したと思って一旦補給のために帰っていったことで救出成功を援け、また苛烈なアッツ玉砕という伏線があったことで、米軍は日本軍が救出されたことを知らず、半月にわたって米軍は3万人以上の兵員を用いて無人島を攻撃して、同士討ちや駆逐艦が機雷に触れたことで死者や負傷者を百数十名を出させた。
 戦後は復員軍人救済のため製塩業を営みながら、田舎で子供に書道を教えていた。
 海軍の後輩が文春に木村のキスカ撤退についての記事を書き、大きな反響があった。それに木村は『自慢するタイプではないが、やはりほめられればうれしい』(P270-1)ということでその後輩に贈り物だったり、お歳暮を贈ったとあるのはなんだかかわいらしくて思わず笑みが浮かぶ。