姑獲鳥の夏

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
この世には不思議なことなど何もないのだよ―古本屋にして陰陽師が憑物を落とし事件を解きほぐす人気シリーズ第一弾。東京・雑司ケ谷の医院に奇怪な噂が流れる。娘は二十箇月も身籠ったままで、その夫は密室から失踪したという。文士・関口や探偵・榎木津らの推理を超え噂は意外な結末へ。



 かなり久しぶりに再読。しかし8月中に百鬼夜行シリーズ読み直そうと思っていたが、8月ももう終わりだというのにまだこの1冊しか読めていないや(苦笑)。あまりに久しぶりで、中禅寺(京極堂)が神主でもあるということを忘れかけていたよ。
 あと第1作目だからというのもあるのかもしれないが、思ったより語り手である関口をボロクソ言っていないのは少し意外だった(笑)。そして初読時には気にならなかったが、関口が京極の話術に乗せられて現実感が揺らぐのが早いなあ。
 しかしシリーズを読んでから見ると、後の味方キャラクターが1作目の時点で多く出ており、また榎木津の能力の説明まで含めて1つのテーマに纏まっているのを見ると改めて完成度が高いなという風に思う。
 『信者が一人もいない宗教人を何と呼ぶか知っているかい?残念ながら現在ではこれを狂人と呼ぶ。信者あっての宗教さ。妄想が体系化して共同幻想が生まれて、始めて宗教たり得るのさ。でも、仮令同じ宗門の人間であっても、まったく同じ仮想現実体験を得ることなんざできない。しかし宗教というのはここのところが実に巧くできている。別々の体験をしているのにも拘らずそれが同じだと思い込めるような仕組みになっている。だから、同じ理屈で大勢の人人の心と脳の揉め事を収めることができる。救える訳だね。この仕組みに一役買っているのが言葉だ』(P57)という台詞は好きだな。言葉によって共同幻想が作られ、共同幻想を共有している規模の大きさで一般に言われることが変わる。
 関口は、わずかなことで現実感がたやすく消えうせてしまうような、とても繊細だが、どうしようもないところが、非常に好きだった、まあ同病相哀れむみたいな感情から来ているものだが。しかし真相をおぼろげながら覚えている状態で見ると、悲しいくらい道化的だな、まあその無能さこそ個人的にシンパシーを感じる部分だが(笑)。あと、再読することで関口のキャラの濃さがわかった。この巻では関口自身の昔の事情も関わっていることを覚えていたから、ベタ塗りに彼の行動を全肯定はできない。しかし初読時は共感と語り手ということもあってほとんど全肯定で読んでいたのであるが、まあ、それはこの本、このシリーズに限ったことではないのだが。
 しかし「そこでいよいよ大学出のエリイトを婿養子に迎えた」とあるので、大学出なくとも医師免許取れるようにも思えたが「戦前、開業医の免状は医科大学を卒業すれば修得できたのだが、昭和二十一年九月には法律が整えられ、国家試験が制定されたのである」ともあるから、どちらにしても大学出じゃなきゃ駄目なんじゃなかろうか。
 また最寄り駅の中野駅まで歩いて20分かかるというのは今から考えるとちょっと信じられないね。現在の東京の密な鉄道路線図を思えば隔世の感がある。
 榎木津の身の回りの世話をしている安和寅吉って、口調から、どうもそんな若いイメージがなかったのだが、経歴を見てみると案外若いね、たぶん20にもならない感じか。それと榎木津が1作目だからか、わりと常識人で吃驚した。
 京極堂が関係者一堂の前でやった憑き物落としのシーンはすごく強烈なインパクトがあって何年も経っているのに鮮明に覚えているのだが、それ以外の具体的な物事については多くを忘れているなあ。
『この男はいつもそうなのだ。いつだって何もかも知っているような顔をして私の中にずけずけと入ってくる。その実、この男が何を知っているのか私には見当もつかないし、たぶん彼は私のことなど何も知らないのだ。でも、何でも知っているというポオズは、底なし沼の上に浮かぶ板切れの上に踏ん張っているような私の感性には至極魅力的だ。だから私はある時期からこの男に自分の一部を委ねてしまっているのだ。その正否は別にして、この男が私という人間のぼやけた輪郭をある程度明確にしてくれる。不細工でぎこちない、寄せ集めのコミュニケーションしか持てなかった私にとって、それはとても楽な選択だったし、この理屈の固まりの如き無愛想な友人は、彼岸から此岸に無理矢理私を引っ張り戻した責任をそういう形で取っているのだ。』(P314)京極堂が関口を「岸から此岸に無理矢理私を引っ張り戻した責任をそういう形で取っている」ということや、12年前の記憶を思い出し憑き物落としが一番必要なのが関口で「君の脆弱な神経はこのままでは三日と持たないだろう」とわかったら仕事を引き受けたり、あるいは終わりに関口が事件の幕切れのせいで気分的にひどく落ち込んでいるときに京極道に何日も居候しているのを置いてやったりしているのをみると、京極堂と関口がいい兄弟、出来のいい兄と駄目な弟だけど兄弟仲は決して悪くない、みたいな関係に見えてくる。
 しかし改めて読んで「魍魎の匣」もそうだが、若干オーバーテクノロジー的なものが含まれているということに気づいた、まあ、こちらは真相とはあまり関わらないのだけど。
 そして関口が牧朗にシンクロして、彼の最後を幻視して、そのシーンを補完するというのはいいね。全く語られないよりもこうした補完されたことで、その印象深い場面が描かれているのはいい、まあ、あくまで幻視なんだけどね。