隅田川の向う側

内容(「BOOK」データベースより)
昭和史関連の著書を多く持つ著者が、自ら体験した「昭和史」とは如何なるものであったか。後の王選手に相撲を教えた少年時代、命の危険にさらされた昭和20年3月10日の大空襲、疎開した長岡時代、戦後の東大ボート部…著者自身と「昭和」という時代の青春期をみずみずしく描く極私的昭和史エッセイ。

 この本は元々半藤さんが編集者時代に、正月に豆本として送っていたものを本としたものというちょっと変わった本。そういうこともあってか、半藤さん自身が「どこかもの欲しげであり、奇を衒うところがある。いまならこんな書きようはしないで、もっとあっさりするのにな」といっているように、ちょっとくどいというか、半藤さんの著作を歴史の本しか読んでいないから感じるというのもあるかもしれず、またこの本では半藤さんの極めて私的な経験が書かれているというのもあって、どうにも半藤さん自身が前面に押し出ているような印象がある。しかし半藤さんが正月に豆本を贈るのを1980年から95年まで16年間続けたというのはすごい!この本に収録されているのが、そのうちの3冊分だけなので、これらの3冊が平均的ボリュームなら毎年80〜100ページを16年間も私的に書き続け送り続けたその継続性には感嘆してしまう。
 半藤さん、王貞治さんと幼少の頃に接点があったというのはちょっと意外、といっても王さんが本当に小さかった頃の一時期のようだが。
 第一章の「隅田川の向こう側」の、26番目に都都逸(三四四三三四五の計「26」文字)が紹介され幾つか引用されているが、例えば「さくら咲くかや咲くかや桜、中に墨田の都鳥」「沖じゃかもめと私をいふが、すみだ川ではみやこ鳥」など、こういう方が個人的には短歌とか俳句よりも好きかも、読むときのリズムもいい感じで素敵。それでチラリとアマゾンで本を探してみたら、都都逸の本がほとんどなくてがっかり……。
 半藤さんが芸者の卯の花さんという方に惚れて、その人と結婚したいと思って直談判に行ったらその親が三代目春風亭柳好師匠だったと気づいたというエピソードは本当かいなと疑いたくなるほどちょっと吃驚する話だな。
 敗戦後最初の天長節、祝賀を半藤さんが当時通っていた長岡中学では行わなかったが、それについて『敗戦と同時に、講堂にかかげてあった山本五十六書「常在戦場」の額をさっさとおろしたくらい、あっさりした校風。学校のモットーは「和して同ぜず」だ。』(P124、ちなみに山本五十六さんは地元出身)ということだが、これは最後は長岡中学を称揚しているのか、それともそんなモットーのわりには思いっきり世間のムードに迎合した付和雷同な行動じゃないかという皮肉なのかどっちだろう?(笑)。普通に見れば、後者だと思うが、でもそれまで長岡上げな文章が続いてきたから割と無理目でも褒めようとしているとも考えられるんだよなあ、むう本当にどちらかわからんな。
 『越後の人に雪の中の生活は何をするのですか、と問うたら、かつては、/「雪ふみと屋根の雪下ろしだがね」/と誰もが答えたものだ。それ以外は、たずねても「さあー」というだけで、家の中で筵を編み、ざるをつくり、藁みの、藁ぐつ、竹籠をこしらえたりするのは生活ではないのである。終日、寂寞の裡に独坐している雪籠りの中のほんの手なぐさみにすぎぬらしい。』(P160)そんな作業が手なぐさみというのはすごいなあ。そして半藤さんが、長岡に居た戦中・戦後でもまだそうした藁みのや藁ぐつなどが自分たちで手作りして使われていたというのは驚きだなあ。しかし昔の雪国の深雪の中では家はどんな状態になっていたのか知りたい、豪雪が降ると雪で家に光が入ってこないから昼間でも電気をつけないと生活できないとかニュースで見るから、昔はどうしていたんだろうとこの話を読んでふと気になった、一番気になるのは電気がない江戸時代以前の生活だけど。それを知るには「北越雪譜」がよさそうだけど、古文苦手だから読むのをかなり躊躇してしまうなあ。
 『「男性器と女性器では、その結合軸が九十度の差異をもっている。故に結合のときには、日常生活とは違った不自然な姿勢をとらなければならない。」人肌の恋しい雪の降る夜なんかは、どんなに不自然な姿勢でもとって見せるぞと、刮然として立ち、孤剣をひそかに撫した。』(P161)こうして文学的な表現でオナニーしたということを書かれるとなんか笑えてくるなあ。
 3章の「隅田川の上で」は半藤さんの大学のボート部での友人たちとの青春時代の話で読んでいてこの部分が一番面白かった。しかし自分のことを含めてあだ名で書いているから、最初は誰が半藤さんなのかわからないが「ヘソは何やら陰で向島芸者とこそこそやっていた」(p214)ということなので、卯の花さんとのエピソードがあるから、ヘソ=半藤さんかな、他にもヘソは「文学士」(P204)とも呼ばれているからほぼ間違いないでしょう。しかし『ヘソが言った、「自信というものは頭で考えて出来るものでなく、深夜に雪の降り積むが如く、いつの間にかヘソのまわりにたまっているものである」と。なるほど、なるほどであった。』(P272)しれっと自分で「なるほど、なるほど」といっているのは、とぼけた味わいがあるなあ(笑)
 『アイヌ語研究者によると、餓えるのウはお互いの意、エは喰うという意で、ウエとは互いに喰い合うことであるとか。』(P194)ウエという言葉にそんな意味だったとは知らなかったので素直に感心する。
 しかし半藤さんたち東大のボート部は隅田川で練習していたが当時食えなかったから、自殺して水死体になっている人が実に多く、練習中に死体を見たりオールで叩いてしまうことがしばしばあったという事実はゾッとするが、戦後日本の困窮がよくわかるエピソードだ。
 しかし半藤さん、『六週間も汗と脂で汚れた練習パンツを洗濯せずにはいていた』(P232)というのはいくらなんでもそれはすごく引くわあ。
 『そういえば、男湯と女湯の仕切りの高さは条例で、一・八メートルときめられている。』(P161)なんか背がとても高い人なら見れそうな微妙な高さであるので、その低さは不安になるな。
 当時の東大ボート部は日本一といっていいチーム(オリンピック代表を決めるレースでは慶応が予測が付かない賭け的なハイピッチを敢行してきたこともあり、惜しくも2位で終わったが)で、半藤さんはレギュラー(とボートでもいうのかしら?)として活躍していたというのは驚いた。しかし現在文筆業をされておられるから、大学時代から文学一筋の文学青年かと思いきや、大学時代は練習漬け、猛練習の日々だったのね。