明治宮殿のさんざめき

明治宮殿のさんざめき (文春文庫)

明治宮殿のさんざめき (文春文庫)


内容(「BOOK」データベースより)
「みやび」と「モダン」が無理なく同居する明治宮殿。NHKドラマ「坂の上の雲」の宮廷シーンの時代考証を担当した著者が、明治宮殿の十二ヶ月を絢爛豪華な「宮廷絵巻」として軽やかな筆致で再現。ツイッター感覚で和歌を詠む天皇陛下、姉さん女房の皇后、女官、侍従職出仕まで、息遣いを伝えてくれる。

 明治の皇族の女性の大礼服は、一応洋装のドレスになったが、当時のヨーロッパでは着られていない流行おくれな長い裳があるものを使用していた。それを導入した理由は、無知だったからではなく、『なによりも長い裳を引くドレスの形がいわゆる十二単の長い裳を連想させ、宮廷の女性にとって受け入れやすいものであった』(P27)ためというのは面白い、安易に流行どおり受け入れるよりも受け入れやすい型とか、いいと思ったものを受け入れるのはいいことだ、けどそれなら普通に十二単とかでいいじゃないと思ってしまうけど(笑)。
 当時の宮殿には子供たちが侍従職出仕として仕事をしていて、彼らは学習院の生徒で2日に1回と隔日で皇居での仕事と学校を行き来していたというのは知らなかった。『この役目は遠く平安時代の童殿上まで遡る由緒あるもので、幼い頃から宮廷に出入りし、大人に立ち混じって働くことで廷臣としての心構えを体得してゆくという宮廷独自の教育システム』(P69)というのが少なくとも大正初めごろまで続いていたというのは知らなかった。結局そのシステムが終わったのがいつなのか少し気になるなあ、流石に現代はないだろうし、戦後に終わったのかそれとも大正・昭和初期のいずこかで終わったのかどうなんだろう。
 そして正月の新年祝賀の儀で、その少年たちがドレスの裳を持つ役割を担い、その儀式は顔を合わせることで目的は達するから『残りの時間、参会者たちはじっくりと儀式を楽しみながら過ごせばよい。/儀式を楽しむと聴くと多くの人は、違和感を感じるかもしれない』しかし『公家たちにとっての儀式の面白さは、小さな村の祭に似ている。参加している人々が皆顔見知りだからこそ、日ごろと違いすまし顔で役目を果す人々の、仕草の一つ一つが面白いのだ。』(P31)かつて公家たちが儀式について色々と熱心だった理由にはそのような理由もあり、彼らは楽しんでもいたというのはちょっと思いもしなかったことだが、感心する。そして明治の華族たちもこの正月の新年祝賀の儀でそうした子供たちの所作を見て楽しんだというのは知らなかった。「華麗なる学芸会」なんて言葉で著者しゃ言い表しているが、それも納得だ(笑)。
 宮殿は昔ながらの寝殿造りをしたが、着物はかつては何枚も重ね着した着物を羽織っていたのに洋装を導入したために薄着になったので、皇后や女官たちにとって冬は寒くて大変だったようだ。
 『「形と心」が一致した世界では、正しい形で神に祈ることこそが、心から神を敬うことになる。言い換えれば、正しい形で祈らなければ心から神を敬うことにはならない。』(P62)これを読んで、神に限らずなんでもそうだと思うが韜晦したり、斜に構えてばかりでなく、ある思想でも学問でも何で正しい形で向き合うという姿勢は重要だけど、自分もそうだが最近は形を軽視する傾向があるようなので、ちょっと改めて考えさせられた。そして明治天皇はそんな形を重視するからこそ、明治になって『新たに形を変えた四方拝や創設された紀元節の神事に対して冷た』かったようだ。
 雪の日に侍従職出仕の少年たちに雪の日に子供たちが雪が降っている中でじっとしていることができないだろうから、決まった形や高さの雪山を作ることを命じて、まあ、彼らも子供とはいえ仕事中だから、遊んでろなんていうわけに行かないから、仕事として雪遊びをしながら雪山を作らせていたというは微笑ましい。
 しかし『雛祭りは、元々宮廷文化に憧れを持っていた武士の間で広まった風習である。宮廷には本物の帝がいらっしゃるのだから、ことさらお雛様を飾る必要はない。/ところが、大名との結婚を繰り返すうちに、この美しい風習は公家社会にも入り込み、やがて宮廷にも根付い』(P71)たというのは面白い。他にも明治宮廷の忘年会での仮装の一つで花魁道中の真似をして女官が歩くことがなされたというが『そもそも花魁は宮廷文化にあこがれる庶民たちが、遊女に女官の格好をさせ一夜の夢を見るという、源氏物語のきついパロディーなのだ』(P195)がそれを見て普通に楽しんでいるのは、案外色々とルーズだな(笑)。こうやって元々宮廷への憧れから発生した文化が宮廷へ逆流する現象が起こっているのは面白いな。
 買い物をする機械がめったになかったから、皇后が自ら安価な小物類を売る小さな市場を開いて、たいした物ではないので品物が欲しいというのでなく、そうやってままごとみたいな市場を作り買い物をすることで、皇后や女官がお買い物をするという娯楽を味わって楽しんでいたというのは、なんだか微笑ましい。
 皇后の本の虫干しは『「蚕棚のようなものを幾つとなく並べ、その上に広げて」という手順で本を一週間くらい干すと、次のものと交換する。これを々、全部終えるまでなんと一ヶ月もかかる大事業であった。』(P115)というようにかなり長い時間がかかる作業をしていたとは驚き、『宮廷や公家の家庭では代々このように手間をかけて本を大切に扱ってきた。虫干しのたびに本をチェックし、痛んでいるようなら本を書き写すということを何百年も繰り返してきたからこそ、現在でも私たちは平安時代鎌倉時代の本を目にすることができる』ということを思うと、公家たちの本への情熱を垣間見るようで感嘆する気持ちや公家や宮廷の人への感謝の念がわいてくる。しかし習慣的なものとはいえ、明治時代は印刷した本についても同様にやっていたというのは手間が増えて大変だね(笑)。
 若い頃は狩猟を楽しんでいたが『明治宮殿移転後は周囲への配慮から庭への散歩さえ控え』ていた明治天皇は、狩猟の報告でヴァーチャルな楽しみを得ることだけでは『りん洋館に乏しい』ので、カラス退治を名目にして皇居内で猟をさせることを思いつき、それを侍従や侍従武官にさせたというのは面白い。そしてその折には侍従たちはカラスでは食べられないから、「たまたま」撃ったというかたちで美味しい鳥も撃っていたようだ(笑)。
 明治天皇が生後一年経たない間に、祐宮(後の明治天皇)は親戚たちに何十回も贈り物を贈答しているのは形式とはいえとてもシュールだ。特にその贈答を差配している明治天皇の祖父である中山忠能相手にも贈答しているというのをみると形式主義の極地だなと感じなくもない(笑)。
 当時宮廷内ではマナーとして『部屋にはどちらの脚から出入りするのか、部屋の回り方などが細かく決まっている』ため、年末の大掃除で御内儀に掃除する人が来るため、身分の区別的にした働きのものと顔を合わせないように普段よりだいぶ狭いところに皇后や女官たちが退避しているとき、なれていない若い女中たちは『足の運びに自信がなくなり、急いでいると間違えて最初からやり直したと言うことになる。/頭をかしげながら何回も部屋に入り直したり、くるくると部屋の中を回転する女中たち』(P194)という光景を想像すると思わず笑みがこぼれてしまう。
 明治天皇が死ぬ間際に普段は雷が苦手な皇后が、雷鳴が鳴っている中で動揺せずずっと天皇の傍から離れようとしなかったというのは、思わず泣いてしまいそうになる。
 『身分制度とは身分の上の者が一方的に恩恵を被る制度ではない。むしろ身分秩序が上がれば上がるほど窮屈になることの方が多い。』(P215)というのは日本の宮廷では細かい決め事があるから特にそうだね。