冬の鷹

冬の鷹 (新潮文庫)

冬の鷹 (新潮文庫)

内容紹介
わずかな手掛りをもとに、苦心惨憺、殆んど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する。わが国近代医学の礎を築いた画期的偉業、「解体新書」成立の過程を克明に再現し、両者の劇的相剋を浮彫りにする感動の歴史長編。

 前野良沢については漫画「風雲児たち」を読んでから気になっていて、その頃からずっとこの本を読みたいなあと思っていたのだけど、なかなか買う機会がなくようやく読了。久しぶりに吉村さんの小説を読んだが、めちゃくちゃ読み進めやすく、またリーダビリティが高いので面白かったから、吉村さんの歴史小説をもっと読みたいなという気分になった。特に「ふぉん・しーぼるとの娘」なんかは以前から面白そうと思っているのでね。
 杉田玄白も「解体新書」によって有名になる以前は『玄白の家は、想像していたよりもわびしかった。/良沢は、小さな門をくぐると格子戸をあけた。家の中に人の気配は感じられず、敷台も薄よごれている。患家からの招きもめったにないようだ』(P13)というように、小浜藩藩医であったのだから不遇を託っていたのではないにしても、細々とやっているような医者だったのね。まあ、そうしてあまり患者の来ないような医者だったからこそ、ターヘル・アナトミアを訳すという無謀な事業に辛抱強く関わり続けることができたともいえるけど。
 オランダ人が江戸に来るときの定宿である長崎屋は『商館長一行の定宿にしては変哲もない構えで、路に面した建物も貧弱』(P18)というのは、それなりに立派な建物だと思っていたのであまり良い建物でもなかったというのは意外だ。
 前野良沢は7歳のときに父が亡くなり、母も他家に嫁いだために母が他の伯父夫妻に育てられたというのは知らなかったわ。その伯父も中々に変わった人であったようだな、しかしその伯父が言った、廃れかけている芸能を大切に取り扱いそれと同時に人が省みない未開拓のものを深く極めることに勤めよ、という心掛けの言葉が、良沢にかなりの影響を与えたようだ、廃れている芸能について良沢は一節截という室町中期に中国から伝わった尺八の祖先のような楽器の名人となり、後者について良沢はオランダ語の習熟という成果をあげ、日本における蘭学のフロントランナーの一人となり、オランダ語の文章を解する能力について頭抜けた第一人者となった。
 それと良沢が青木昆陽の門下に入っていたとは知らなかった、完全に独学の人だと今まで思っていたから吃驚。しかし昆陽の著作に、オランダ語の単語が700個ちょっとが並べられているのを見て良沢は、不可能とされている中で光明を見出したように感動して、その事績を昆陽に向かって褒め上げたら昆陽も満足そうな顔をしているのを見ると、当時いかに蘭語を習熟することが不可能なことだと思われていて、初歩にいかない程度のレベルにしか到達していないのにそこが江戸で学べる最高峰で、それで師弟共に満足し、感動しているのはある意味悲哀を感じ、また当時の蘭学のレベルがいかに低かったかがよくわかるよ。その青木昆陽はオランダ通詞たちから見たらレベルが低いようだが、通詞たちにしたってオランダ語の文章をきちんと読めるレベルには達していないという惨状だからなあ。しかしそんな中でオランダ語を学ぶというのはただでさえ困難極まりないことなのに、良沢は47歳(当時としては高齢に差し掛かっている)になってオランダ語を学び始めようと決心するが、仰ぐべき師も未熟だから、より一層絶望的に見えるし、実際そうなのにほとんど独学でオランダ語の文章を訳せるまでにオランダ語に習熟するというのは、ちょっと意味がよくわからないほど凄いわ。
 良沢は自らを律する性質だのに、それでもあふれる熱意のために藩公に留学を願い出るというのは、普段そういうのを抑えている人がそうした行動に出たのを見ると、彼の中の強い熱意がよくわかる。
 長崎留学の折、幸左衛門の家に行ったとき「書物がうずたかく積まれている」という描写を見て、ここで「うずたかく」が出てくるかと思わずニヤリとしたが、初めてオランダ語を暗中模索しながら単語の意味を解せた場面では「うずたかく」としてないのか。まあ、「あとがき」にあるように実際はターヘル・アナトミアにその語はないということだし、「風雲児たち」でそのことも知っていたから別にいいんだけどさ、しかし「風雲児たち」の良沢らの描写ってこの本からかなり影響を受けているんじゃないかと思った、このターヘル・アナトミアに「うずたかく」はないということも含めてね。
 良沢がその幸左衛門の家で初めてコーヒーを飲んで、その苦さに顔をしかめ、彼の家から辞した後、「軒をつらねた家の井戸を見つけると耐えることができなくなって小走りに近寄った。そして、桶に水を汲むと何度も口をすすいだ」なんて描写を見ると、この年代の知識人が苦さのあまりそんな行動をとっているのを見ると、現代とのギャップもあるが、なんだかとても微笑ましく見える(笑)。
 通詞たちが閉鎖的だというのは知っていたが、通詞たちの間でも競い合う気持ちが強いから互いに孤立し、職を守るために秘密主義になっていたというのは知らなかった。
 あと良沢が長崎でターヘル・アナトミアだけでなく、仏蘭辞書も入手していたというのは知らなかった(か忘れていた)が、わずかな単語だけ書き付けたのでは流石に翻訳するのは無理があるから、それがあれば多少はましになるのかな、といってもそのオランダ語の説明を意味の分からない単語を飛ばして読んで、意味を類推するには尋常でない努力、ひらめきが必要なのは変わらないのだが。
 しかし良沢が玄白や中川淳庵と腑分けを見に行った折に、ターヘル・アナトミアの図から身体の部位の単語をいくつか説明しただけで、玄白らは呆然としているが、当時はオランダ流外科を称していた玄白すらそんな体の部位の単語もろくにしらなかったというのは驚く。しかしそうした姿を見ると玄白は本当にオランダ流外科を「称して」いただけなのではという疑念がぬぐいきれないし、彼がA、B、Cというアルファベットすら知らないのを見ると余計にその疑念が深まる。
 腑分けを見学してターヘル・アナトミアの正確さに感嘆し、興奮して、翻訳しようと玄白は熱意を見せ、それに良沢や淳庵が同じ熱意でその熱意に賛同した。彼らはこの当時はもう壮年や老境に差し掛かっているのに、そうした熱意や感動を示しているのに青年、少年のような熱さを抱いているのを見ると、年がいっているからこそそうして情熱を発露しているさまを見ると、その本気さ、熱情の強さが読んでいるこちらにまでその高揚が伝わってくるようだ。
 その折に前野良沢は「オランダ語を少々おぼえてまいっております」といっているが、本当に少々なのに、なんか慎み深く少々といっているように聞こえるし、実際に江戸においてこの時点でもおそらく前野良沢と並ぶ人間はそうはおらず、また彼のわずかな単語の知識でさえ他の人からすれば仰ぎ見るようなものだという現実を見ると、まだ蘭学が黎明期だということがよくわかるよ。
 解体新書の訳について実際の訳をとりあげているのはいいね。そしてその訳はこじつけた誤訳は散見されるが「総体的にみて大意はほとんど正しく翻訳されていた」(P205-6)というのは驚愕する。
 玄白はあまり良沢の学問の情熱には敬意を抱いていたが、彼の偏狭性や完璧主義なところを苦手に思っていた。また解体新書後に自身が栄達したこともあり引け目を感じて、また良沢を疎んでいた気持ちもあったようで、その後はあまり交流もしてなかったようだ。そこらへんは仲良さ気に描かれていた「風雲児たち」とイメージ違うから、少し驚いたな。しかしラストに描かれた良沢が死んだ折に葬儀にも行かず、日記にも「前野良沢死」とたった五文字書いただけというそっけなさを見ると、そちらの方が正しいのかもなと思えてくる。
 またターヘル・アナトミアを暗中模索の中一語一語執念深く訳して一年の翻訳で、まだまだわからない語がたくさんあったが、それでも文章の翻訳はオランダ通詞(大通詞)にも達せない域まで行ったというのは当時の通詞たちは会話が主とはいえ情けないなあ。いや、そうでなく良沢の尋常でない執念と集中力という異能あっての成果だから、その良沢の尋常でない気質を讃えるべきか。
 そして1年と少しが経ったら、やさしい部分は一日10行も訳せるようになっていたというのは驚嘆するしかないわ。最初のころと比べれば長足の進歩だし、一年半で抄録に一応のまとまりを見せたというのは感嘆するというより衝撃的だ。そして訳し始めてから3年5ヶ月で「解体新書」が刷り上ったとは、初めの惨状を見ると信じられないような思いだ。
 オランダ流医学に強い感心を抱いていた建部清庵が、オランダ流医学に対する疑問をしるした質問書を弟子に渡して江戸のオランダ流医家の回答を得るよう依頼したが、2年もその回答ができる人間が見当たらず彷徨っていたが、「解体約図」出版のうわさを聞き玄白の元にやってきて、玄白は建部の質問書を見て彼の知性に驚嘆し、丁寧な返書をして疑問に答え、刷り上ったばかりの「解体約図」を渡した。建部はその約図を見て感動して更に書簡を送ってきて、そこから2人の交流が始まったというのは、とっても好きなエピソードだ。それと弟子の2年も探し回ったと苦労も師弟の強い絆を感じるからいいね。
 藩主である奥平昌鹿(含め歴代奥平家当主)の前野良沢への理解と好意にはホロリとくる。
 エレキテルを復元した平賀源内がエレキテルを見世物にしたのは、欧米で上流階級の見世物になっていたというのを知ったからか。たまたまシンクロして、洋の東西の差があっても人間考えることが変わらないのかなと思っていたから、そうした真相を知り、なあんだと少し残念に感じる。それにエレキテルの復元にもオランダ人の助言があったようだしね。
 玄白は本人の蘭学の実力はともかく、彼が如才なくやってくれたおかげでその後の蘭法医や蘭学者の地位が高まったというのもある。彼は蘭学については解体新書以後ほとんど上達しなかったようだし学者ではないけど、大学の学長が似合っているような感じ、なんとなくなイメージだけど。それに玄白はオランダ語の学習を望む弟子の玄沢を、折り合いはあわないが日本一の学者である良沢に預けたりする融通性はあるのは、玄白は自らの像が実像よりも大きくなっているのを喜んでいる節があるとはいえ、流石に蘭法医の大家であるだけあって中々の人物だな。まあ、良沢が玄沢が来たときに感じたように「利用価値がある時のみに行動をおこす玄白が不快だった。が、同時に自ら語学の知識が足らないことははっきりと自覚し、門人に良沢の門をたたかせようとする度量の大きさにも感心した」(P311)不快さも良沢に感情移入をして読んでいるから感じるけどね。まあ、大体が良沢と同じ感想だなあ
 良沢はラテン語で書かれた西洋画の賛の翻訳を幕府から中津藩領主奥平昌鹿経由で依頼されたということだから、彼の実力は幕府にまで知られていたということで、良沢自身は名を気にしていなくとも、そのことは少なくとも一定の人々には良沢の翻訳者として大きく評価されていたと知り、なんだか良かったなと安心した。まあ、ラテン語オランダ語を一緒にして、ラテン語の翻訳を以来したというのはあれですが(笑)。それでも、オランダ語ラテン語辞書を見ながら翻訳を進めたというのはすごいわ。
 前野良沢が著した「和蘭訳筌」は『オランダ語教科書を訳出したもので、文法をはじめ文章の訳し方を多くの短文を例に訳出している入門書であった』(P328)ということなので、よくぞそれを出してくれたと後世の人間ながら思う。どうも知識の抱え落ちをするのではないかという恐れがあったから、彼はこういうのを残してくれたとわかりホッとした。また他にも前野良沢は築城法の本やカムチャッカについての本、世界地理の本などを訳した。
 高山彦九郎自死しようとして腹に刀を突き刺したところで止められたが、結局翌日死亡した。それなのに自刃したことを聞いて飛んできた検使がそうしたのは何故かを詮索しに来たというのは、奇妙でおかしな光景。まあ、「何故の自刃か」「狂気故に……」という問答は格好いいけど。