医学の歴史

医学の歴史 (講談社学術文庫)

医学の歴史 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

人類の歩みは絶えざる病との格闘であった。患者への温かい眼差しをもって治療に当たり、医療・医学の根源からの探究を志した病理学者が、人間の叡智を傾けた病気克服の道筋とそのドラマを追う。興味深い挿話、盛り沢山の引例、縦横に飛ぶ話柄。該博な知識と豊かな教養をもつ座談の名手が、洗練された名文で綴る人間味溢れる新鮮な医学史。

 予想していたのとちょっと違ったな。その時代ごとに、具体的にどういう症状にはどんな治療をしていたかというのをもっと読みたかった。まあ、題名的には本書の内容(医療について体についてどういう捉えられ方をしていたか、そしてどの時代にどんな医学的な進展をしたかについて書かれている)が正しくて、勝手に予想していたものは、たぶんまた違うものなのだろうな。
 古代にはどのような医学の体系があって、それがどのように人体の機能を正確に把握して、現在のような医学となったかが書かれている。
 冒頭の推薦のことばに書いてあるように、『興味深い話題に富んでいる』ので読んでいて退屈で読み進められないということにはならないけど、近代に近づくと難しい話も増えてくるから、医学についての知識が乏しく、内容が短いページでぎゅっと詰まっている分、あっという間に話が次々と変わるからいまいち頭に入ってこないな(苦笑)。それに後半になると人体構造や薬の発見の歴史だが、それはいまいち琴線に引っかからなかったな。
 ヘロドトスは「歴史」で、バビロニアには医者が居らず、病人が出ると広場に連れて行き、通行人は病状を尋ね、自分や知り合いに同じ病気の経験があるとその治療法を教える。そして通行人何の病気か尋ねずに通り過ぎてはならないという風習は面白いな。ただ、「歴史」って信憑性が微妙だとも聞いたことがあるから本当かなとちょっと疑ってしまうが(笑)。
 治癒神信仰があるように、古代において呪術と医学は同じものだったが、徐々に経験医学が生まれたことで分離していく。
 本筋の医療とは関係のないことだが、人類学には人間の「自己家畜化」という仮説があるというのは知らなかったが、なにやら突飛で面白そうな話だ。
 元素説(乾、湿、温、冷)を四大元素と結びつけ、さらに四大体液説(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)を結合させたものが古代ギリシア医学の体系となった。
 ヒポクラテス医学では、病気は体液の乱れから起こり、悪いものが嘔吐、下痢、排尿、発汗、化膿などで体外に「分利」することは、全て治癒効果のある過程と見る。「赤毛のアン」の一説の、アンの家の隣家の少女がたんを吐いたら体が楽になったと医者に報告している文章について『まさに絵に描いたヒポクラテス医学である』(P60)と言っているのは、かなり近代になってもそうした古代の捉え方が残っていたというのは、ちょっと驚き。
 古代において一箇所に定住する医者は少なく、現在でも名が残るヒポクラテスのような有名な医者でも渡り職人のような遍歴医であることが普通だった。
 『クニドス派〔の各論的医学〕は、今日の知識によって初めて実を結ぶことが出来たはずだ。そもそも「一般」病理学に基づく予後などありえない(「一般」からどうして個別の予後が推定できよう)。それでもなお、ヒポクラテスは、一般病理学の幻を追い続ける天才だった。クニドス人は、薄暗い道を足を引きずりつつ「個別の病気」を追う苦行者だった。しかし、必要な知識はかれらに乏しく、それを暗示する灯火さえ、はるか彼方にしかきらめかあかった。』(P66)ヒポクラテス医学では、体は常に全身で病気は常に一つで、症例が違っても、共通の病歴、共通の分利、予後があるとされていた。そのため病気が個別化されていなかった。一方でクドニス派では、病気はどこ、病名は何という問いかけが当然だった。現在の視点から見ると、クドニス派が正しいのだが、具体的な症例があったときそれは何が悪いのか、それに対してどんな治療が有効かという知識が足りなかったため、古代から中世においては、ヒポクラテス医学のほうがかえって病人そのものに肉薄することが出来たということのようだ。
 イエスの登場まで病気は罪であると考えられ、重度の障害などをもつ病人ほど彼らの罪意識もまた深かった。
 古代ギリシア最後の代位学者『ガレノスは食餌、マッサージ、運動を進めたが、同時にたくさんの植物生薬(ガレノス製剤)を作り出し、瀉血をすすめた。』(P97)瀉血っていつから西洋世界に普及していたのか知らないが、その源流の一つに彼の存在がありそうだ。
 サレルノ医学校の、サレルノ医学では尿の検査が重要視され、『中世末期には尿診断が、医師のもっとも重要な任務とされ、マトゥラ(いまの言葉でぽっと)というフラスコ型の瓶(尿瓶)は、近代の聴診器のように、意思のシンボルとなった。』(P109)
 『中国北部は不毛の地が多くて薬用とすべき植物も少ないので、物理的な刺激療法が用いられたのであろう。これに対して、張仲景の『傷寒論』は南方の揚子江(長江)付近に発達した医学なのである。』(P125)北部と南部で違うと知らなかった。
 中国の『素門』という書物には『普通にいう「治療」は渇して井戸、戦って矢を用意するのたぐい。「治療」というより「手遅れ」と称すべきであり、神仏だのみの代替物に過ぎない。』(P130)と書いてあるようだが、当時の技術水準ならばそれが真理だったのだろうなあと思う。
 アラビア・ルネサンスは8世紀から9世紀に始まり、その頃にギリシア語原点やシリア語訳からアラビア語へとさまざまなギリシアの科学文献が翻訳された。
 ラーズィーは生涯で100〜200冊の著作を残したが、ほとんどが写本のままで印刷されていないというのは有名な人なのにと、ちょっと意外に思ったが、医学に関することだから、現代で新しく書籍化してもあまり買う人も居ないから仕方ないか。それに著作が少ないのならばそれくらいなら全集出そうというところもでるかもしれないけど、そんなに多いのではそういうところもないか(笑)。
 ルネサンス時代の改革者パラケルススは旧弊医学の代表としてヒポクラテス、ガレノス、アヴィセンナを槍玉に挙げたというから、この3人がルネサンス以前の医学の代表的な人なのかな。『十五世紀後半の、ドイツ・チュービンゲン大学のカリキュラムを見ると、一学年はガレノスとアヴィセンナ、二学年はアヴィセンナとラーズィー、三学年はヒポクラテスとガレノス、さらに歩行としてアヴィセンナ、ユハンナ・イブン・マサワイー(八〜九世紀のネストリウス派の医師)、コンスタンティヌス・アフリカヌス、それにアラビア語翻訳術が加えられており、さながらアラビア医学研修であった。』(P146-7)こうした、かつてどのような医学が教えられていたかというカリキュラムを見るとなにやら無性に面白く感じる。
 医学は18世紀『中葉以降、はっきり現代へ舵を向けた。医学には解剖学の方法が浸透し、外科が権威を増し、種痘が試みられた。衛生学もさまざまな形で発展した。』(P199)
 ルネサンス期の人カルダーノは、補聴器の工夫をしたというが、補聴器というものは現代になってから出来たようなイメージをなんとなく持っていたのでどんなものか興味がある。
 ルネサンス期になって病気の個別化がなされはじめ、多様な病気を認識されることで新しい医学が始まろうとしていた。
 「解体新書」の原本であるターヘル・アナトミアは姿こそ変わっても、前野良沢杉田玄白らが翻訳する200年前(ちょうど種子島に何番人が到来した年)に刊行された「ヴェサリウス解剖学」だったというのは驚愕。
 18、9世紀のヨーロッパで始めて外科と内科との強固な境界がとりはらわれたが、それまではヨーロッパに限らず、他のどの地域でも境界があり、外科は一段低い存在と見なされていた。