ある出稼石工の回想

ある出稼石工の回想 (岩波文庫)

ある出稼石工の回想 (岩波文庫)

内容紹介

人口が増大し,都市開発がすすむ19世紀のパリでは,石工の需要が飛躍的に増加し,石工は出稼労働者の代表的存在となった.フランス中央部リムーザン地方の出稼農民の子として生まれ,14歳でパリに出たマルタン・ナド(1815-98)の回想は,この時期の移民労働者自身のものとしては唯一の貴重な記録である.本邦初訳.

 ある時代の生活感を感じられそうな自伝だと思い読み始めたが、実際その予想は外れず面白かった。19世紀前半の出稼ぎ労働者、春に都会へ言って石工をやり冬に自分の村・家に帰るので家で家族と共に生活できる期間は毎年家に帰っても年に3ヶ月ほど。ちなみに石工は当時の出稼ぎとしてポピュラーな職業だったらしい。そして当時石工は「しばしば50歳まで夫婦それぞれで生活し、冬季だけ共に暮らした」というような夫婦共に居る期間の方が短い生活を送っていた。またオルレアン朝当時の政治的状況、出版の自由や集会の権利などに対する締め付けについての描写など政治について語っている部分は、当時のフランスの状況を詳しく知っていたら、あるいはへえと思えるのかもしれないが、共和制への礼賛がとても強い上に当時のフランスの状況を全く知らないから、実に読みづらく目が滑ってしまうし、教条的な文章で他の部分と比べて魅力に乏しく、見るべきエピソードもないように思える。後半はそうした政治的なことに関する話が増えたし、政治運動してた人のエピソードもちょくちょく入れてくるから、どうにも読みづらさが増していったが、これでも「前半部に比していささか平坦なものとなっている」後半部の訳出をしなかったのか、この本の後半でも読みづらさが増したと感じていたのに、真の後半ではそれより更にというのでは、普段は面白かったと思う本は全訳のほうが良かったのにと思うことがほとんどだが、これは訳出しなくて正解だなと素直に思える(笑)。
 フランスでも農村部では夜の集いという冬季にある家集まって、老女たちが昔話などを語るのを聞いたりというようなことが場所によっては19世紀末あたりまで続いていたとは知らなかった。しかしその他にもフランスといえば革命もあったしその当時は既に先進的だというイメージをなんとなく持っていたが、ドイツなどプロテスタント諸国と違い、学校制度が民衆レベルにまではあまり広まってないなどと書かれているのを見ると、ちょっとイメージ変わるな。
 幼少の頃(10歳くらい)学校に行っていた頃に、3、4歳上にひどいイジメっ子(しょっちゅう人に水や砂をかけたり殴ったり、物を盗んだり、遊びの邪魔をしたりしていた)が居て、耐えかねて仕返しに彼が梯子に登っているときに梯子の下の部分を引っ張ったら、打ち所が悪く、寝込んで数ヵ月後に死んでしまったとは、そうした事態を招いてしまったことも、息子が死んだイジメっ子の両親も、それによって傷ついている著者も痛ましいな。
 ナドの両親(まあ、両親もナドだけど)は父親が教育熱心だったようだが、それでも当時のフランスの田舎ではまだまだ教育を受けさせることが一般的でなかったようで、学校、教師を転々とさせながら結局数年間教育を受けさせただけに留まった。しかしある学校が言いと聞いて、その学校に父親はナドを送るが、その学校があるのが遠い町(徒歩圏にない)なので下宿させて、週に一回母がパンとチーズを届けにやってきてくれたが、そのときは母その町に少しだけ休んでいるときにナド(息子)を抱きしめ、様々な忠告をして、そうして少し時間が経ったらとんぼ返りで家路に着くという慌しいことを毎週のようにやっていたナドの母親の苦労、いやそれをそんなに苦に思っていないだろうこと、にはちょっと胸が熱くなる。
 出稼ぎに行くために村を出るのは13、4という年ごろで、旅費の節約のためかなり速いペースで歩き続け3泊4日の強行軍でパリへ行った。そのため、著者は始めてパリへ向かった年にはぶかぶかの靴を履いていたということもあり「足の皮が裂け血に染まっている」という状態になってしまった。途中で乗合馬車にも乗るが、多くの人を乗せて一人当たりの運賃を安く上げるため「馬車の車軸の下にぶらさげた籠の中にも、仲間の四人がつめ込」んで移動いた。
 著者が住んでいた地域は年に3〜7ヶ月栗を主食にしていたというのは、ヨーロッパはやはり小麦じゃなくても麦系の作物をメインとしているイメージがあったので、19世紀初頭にもかなりの期間栗を主食とするような地方があったとは意外だ。まあ、日本でも都市だけではなく田舎の津々浦々まで米が主食となったのはかなり新しい時代のことだから驚くべきことでもないのかな。
 またナドの出身地ではチーズ、牛乳、野菜で育ったからパリに来て一年余りは肉を食べることができなかったというのは驚いた。
 1830年の革命の際、共同の事業をしていた叔父と父が破産したことで、父は1万1000フラン以上の負債を負い、その後長きに渡る父子二人で借金返済のための苦労の日々が始まった。
 乾燥させた尼草の根をせんじて甘味を煮出したものにレモン汁を加えたココという清涼飲料水があることや19世紀になってもそれを売り歩く呼売り人の姿がとても多かったとは知らなかった。それとそうやって何かを売り歩く人のことを、振り売りというのはなんか限定されているというか微妙に違う気がするしなんと呼べばいいのだろうと思っていたので、ここで「呼売り人」という言葉が出てきて、なんだこんないい塩梅な言葉があったじゃないかと、その言葉を見つけたことに思わず笑みが出る。
 『金持ちたちが冬はパリにおもむいて、洗練された文明が彼らに提供するあらゆる楽しみを教授するのと同じように、私たち出稼ぎ住民は、幸せを感じながら自分たちの田舎に帰り、農民たちの心を浮き立たせるのである。』(P107)当時冬になるとパリに金持ちたちが行って、一方石工たちは冬には田舎に帰るという対照はちょっと面白いな。
 ナドはパリにいっていくつかの先生の元で勉強をして、製図の勉強などもしたこともあり、また自分たちの家の借金が多大――毎年父子二人、出稼ぎで働いても年に500フランずつしか返済できなかった――ということもあって、ナドは小さな学校を開いた。それは普段の仕事の後に教える仕事をするという体力的にハードなものだったが年に4、500フランの余計な収入になった。しかしそこで教えた同じ職の生徒たちが、その授業にとても満足して、毎回授業後に熱のこもった握手を著者としていたというのはいいね。こうした、勉強への熱意、強い向学心を見ることや、そうした学校で学んだことによって「勤勉で熱意にもえた若者のなかから、一定の数の腕のいい親方職人や裕福な建築業者にすらなるものが出た」というのは読んでいてとても嬉しくなってくる。個人的には勉強はかなり苦手で熱意を持つことはほぼないのだが、歴史の本で教育が十分ではない状況で勉強への熱意を見せる人たちを見るのは好きなんだよねえ。そしてその学校は11年も続けていた。
 『彼女はエプロンを二つにたたんでコップ代わりに使って、私たちは思う存分に泉の水を飲んだ。』(P184)当時のエプロンってそんなに水が通らないような布で作られていたのかと少し吃驚。
 ナドたちの間でオレルアン公の結婚の際に、バルコニーや屋根の上に桟敷を設け、それを貸し席にして金を取ろうというアイデアが出てきて、それを分配して大いにもうけたというのは機を見るに敏な人たちがうまく儲けた小気味いいエピソードって感じで好きだな。
 レオナールという親方職人はしょっちゅう部下におごらせていたような、評判のよろしくない男であったが、後にナドが議員になったときレオナールを見かけ、身なりが非常に汚い哀れな状態にあったため、養老院に入れてやったが、その養老院でレオナールはナドの悪口を言っていたが、それはかつてナドはある現場で彼の下に付いたときにおごれという催促をしばしば拒否したため、数十年後までそのことを許せないと思っていたとはなんとまあ気の長いことで。まあレオナールがナドの悪口を行っていた理由は、それだけではなくかつて下にいたものが現在ずっと上の地位に居ることやそんな男に恩を受けたことが許せないという逆恨み的心情もあるのだと思うが、個人的にはこうはなりたくないなあと思う典型例。
 上にも書いたが、出稼石工は冬季だけしか村に居ることができない。そのためナドのように結婚して17日で再びパリへ出発することになったようなことも起こるし、新婚でも何でも冬の間だけしか夫婦での生活が遅れなかった。
 ナドはいい雇い主に恵まれある仕事で多くの支払いを得たが、父に冬になり村へ帰る時に知らせたほうが驚かせ喜ばせるだろうと稼ぎを秘密にするという、内心での高揚をうかがわせる稚気は微笑ましいし、また実際に今年の稼ぎを見てみようといって1300フランを渡したときに、父親が「私を抱きしめて嬉しさのあまり泣き出した」なんて、その時の父の気持ちやナドの嬉しさと誇らしさに満ちた気持ちを考えると、こちらまで嬉しくなってしまう。
 また結局その年ナドは村に帰らず金だけ父に預けてパリに残って、それから2年も親方職人としてパリでずっと働いて家に帰らず、3年ぶりに家に帰るまでに多くのお金を稼いだ。
 『ご想像いただけるように、出稼石工が帰った時、とくに出稼者が一家の大黒柱で、ほとんどそのおかげで一家全員がパンを食べられるといった場合、家族が感じるのは嬉しさよりも、極度の高揚感である。全員が笑顔で迎えるのではなく、泣いてしまうのがその証拠である。』(P303)そうしたことが出稼ぎ石工たちにとっても絶対多くのお金を稼いで代えるんだという強いモチベーションになっていたのかな。
 そうして3年で4000フランも持って帰ってきたことを披露するときに、『わたしは一〇〇〇フランの一袋を、そして二つ目の包みも取り出した。父も母も妻もそして姉妹たちもうれしさをもうこらえきれず、小躍りして喜び、互いに抱き合うのだった。/少し間をおいてから私は妻に言った。「もう一方の隅のほうを探してごらん。たぶんもうひとつ別のものがあるよ」と。妻はそこからもう一つの袋を取り出して、すぐに「多分。もう一つ、お金の包みがありますね」と言った。彼女はそれらを持って最初の二袋の脇に置いた。みんなは互いに見つめ合い、涙に喉が詰まって声も出せず、互いに抱き合うのも面倒といった有様であった。』という描写はナドが得意になっていることや家族が非常に喜んでいることに強い充足感を味わっていて、自身にとっても印象的な場面であったことが描写の長さからも伺え、またそのお金をテーブルに並べ、それを皆でうっとりとながめながら朝の二時過ぎまで過ごしたというのはとても好きなシーン、いいシーン!1930年に1万1000フランの借金を背負って、長らく借金に苦しまされ今後も長く苦しまされるだろうと思っていたのが、彼が1942年に4000フランを持ち帰ったことで、来年には完済できる状態になったという一家の喜びは言語では表現しがたいものがあるだろうなあ。それに節制して一年で400フラン持ち帰ったら賞賛に値すると言われていたのに、三年で4000フランも持ち帰るなんて家族の誰もが想像していなかっただろうからなあ。親方職人でいい雇い主に雇われて、仕事も多くてという好条件が必要だからな。