徳川慶喜家の子ども部屋

徳川慶喜家の子ども部屋 (草思社文庫)

徳川慶喜家の子ども部屋 (草思社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

最後の将軍慶喜の孫娘に生まれ、高松宮妃殿下を姉にもつ著者が小石川第六天町の三千坪のお屋敷で過ごした夢のような少女時代を回想する。高松宮妃となる姉上が嫁ぐ日の記憶、夏休みの葉山や軽井沢へのお転地、四季折々の行事や日々の暮らしを当時の日記や写真とともに振り返る。戦前の華族階級の暮らしを伝える貴重な記録であり、四百年近く続いた将軍家に生まれた一人の女性の生き様を記した回顧録である。


 徳川慶喜家といっても最も若い世代の孫なので、慶喜の死後生まれているため慶喜についてのエピソードは少ない。そして慶喜の七男で家を継いだ父も著者が幼いときに亡くなっていて、母は有栖川宮家出身であるため「おわりに」で書かれている通り家の雰囲気は武家風というよりも古風な宮廷風であったようだ。そのため子供の頃は外出することも少なく、舞台を見るなどの娯楽についても制限されていたようだ。そのため、昭和初年の生活についての徳川慶喜家での生活が書かれているが、俗世間について描かれていることはとても少ない。
 冒頭に掲載されている徳川慶喜邸の見取り図は、敷地内に家で働く人たちの家がいくつもあるというのはすごいわ。その建物群が「お長屋」と呼ばれていることからも、この時代の元大名の家はまだ小規模ながらも大名屋敷の流れを汲んでいることがうかがえる。
 育ちからして当然ではあるのだが、敬語がとても綺麗だ。ここまで丁寧な言葉を自然に使えるのは尊敬するよ。僕もそうなんだけど、敬語で下手な人が文章を書くと酷いものになるから、こうやって敬語で読んでいて変わった文章だなんて意識に浮かばせないくらいの文章を書いていることには思わずため息がもれる。そして一部引用されている当時の日記の文章も子どもの頃の文章はいかにも昔のお嬢様といった文体なので、本当にこういう文章をごく自然に言ったり書いたりする人がいたのかとなんか感動してしまった。
 子供時代に10歳違いの姉が良く遊んでくれていたというのは、随分と面倒見が良いお姉さんだなあ。というかそのお姉さんは後の高松宮妃なのか。
 元海軍大佐の家令がいたというのは既に昭和になっているとは思えないほどの異空間ぶりだなあ。そのくらいの地位を得た後に華族の家令のように、ある家の中や社交に関わるだけの仕事につくとはちょっと不思議な気もする。でもこの頃って軍縮の時代でもあったから徳川家に仕えるというのは体面も保てるし、そのくらいの地位にいたった人でも割と職の付き手がいたのかな。
 達磨は年の暮に川に流したというのは、昔はそうだったんだとちょっと感心するが、暮れになると達磨がいくつも流れてくるというのはなかなかシュールな情景だとも思う(笑)。
 子供の頃の著者はお転婆で家の広い庭を走り回って遊んでいたためすり傷、切り傷が耐えなかったようだ。どうも外出や娯楽などについて厳しくしていたため、そうしたお転婆については大らかに見られていたようだ。
 しかし華族のお嬢さんなのに古い講談本の猿飛佐助や服部半蔵が好きだったから、子供のころ女忍者になりたいと本気で思っていた時期があったというのはクスリとくる。
 写真が多数掲載されているのはいいね。その中に両親の結婚記念の写真も載っているが、著者の父は坊主頭だが理知的で清潔感があって顔も小さくて格好いいなあ。
 『日本舞踊は下方のもので、お上方はあそばさぬものだったからだ。』(P110)そういわれれば芸者とかそういった印象もあるから納得できないこともないけど、現在は日本舞踊なんて良いところのお嬢さんが習うものという勝手なイメージがあるから、ちょっと意外だった。
 著者の母は有栖川宮家出身ということもあって、皇太后にお話し相手に招かれることも多く、後年は雅楽の琴や笙のお稽古の相手をすることもあったということだから超上流階級ですな。いや華族で徳川なんだから、超上流なのは当然だろとも思うけどやっぱり皇族、しかも天皇陛下の母上とかと親しい交流があったというのは驚きが違うよ。
 慶喜家を継いだ兄は戦争時に陸軍輜重二等兵で出征したとあるが、なんとなく華族は士官クラスになっているだろうという勝手なイメージがあったのだが、何故そんな階級なのかな。そこは比較的楽なポストであるとか何かしら理由があるのかしらん。まあ、なんにせよ二等兵の公爵とか面白すぎる。
 お次の人の言葉遣いについて厳しく、お次の人にとって目上であってもお上にとって目下であれば名字呼び捨てで、慶喜を援助してくれた恩があるような渋沢家でも、さんづけをさせなかったというのは現在から見たらちょっとありえない風習だな。
 当時の学習院は春(4月)と秋(10月)に学年が始まる二重学年制だったとは知らなかった。ちょっと不思議なシステムだなあ。そして課外授業に薙刀の稽古があったが、その先生は皆女性であったけど、その中のトップでお年寄りの園部先生は鎖鎌の腕は日本一だった。園部先生はその一つの情報だけでそうとう個性的(だって戦前で、学習院の先生をしているお年寄りの女性で、鎖鎌日本一だよ!)で、なんだか笑えるなあ。
 戦争に対する当時の見方も、当時感じた思いをそのまま余計ないいわけじみたことを付言せずに書いてあるのは素敵ね。現在から見て当時の諸々の事象に悪罵を加えたり、自分は違うと言い訳したりするのは見苦しいからなあ。まあ、夫は敗戦必至の情勢だから現在の軍の真の状況を極秘の数字でもって政治家に伝えるなどの行動をとったことで、戦争を早期に憲兵に一時捕まっていたという英雄的な人だからこそ、そういうことが言えるのだと邪推できなくもないけど、まあ、文章からうかがえるお人柄から考えるとそんな打算的なものが混じっているとは思えないのでそうではないだろう。