闇の歴史、後南朝

内容(「BOOK」データベースより)

六十年におよぶ南北朝動乱。両朝合体後、皇位迭立を阻まれ、歴史の表舞台から姿を消した旧南朝の皇胤たちは、いかなる運命をたどったのか。陰謀に巻き込まれる者、再興の志を持つ者、さらに、三種の神器のひとつ、神璽を奪い去る事件をひきおこす者まで現れたのである。室町幕府の抱える矛盾や天皇家の闇を、少ない史料を丹念に集め実証。近・現代史にも影を落とすその歴史に光をあてる。新知見を盛り込んだ後南朝史の決定版。


 後南朝とは、南北朝の合体後の旧南朝勢力そして南朝系の皇子たちのこと。南朝は常に劣勢であったとはいえ約60年間存続したというのは、その期間を改めてみると長さに驚くし、そんなに長く続いたのであれば南朝系の勢力が合体したからといってそう簡単に雲散霧消にならないか。後南朝については合一から約90年後まで後南朝の歴史/末路を資料によってたどることができるが、それ以降は信をおける史料はないようだ。
 かなり旧南朝系の人物についてほどほどに詳しく、ほどほどに簡潔に説明されているのはいいけど、このくらいの時代についてあまり馴染みがない上に思っていたよりも学術書のような内容で難しいので読んでいる傍から内容が零れ落ちていってしまったという感じだ(苦笑)。
 しかし南北朝の合体のときに、足利義満両統迭立南北朝が交互に天皇を継ぐ)ことを約束していたとは知らなかった。まあ、現在の視点から見てみれば明らかに履行されなさそうな約束であるが、南朝側はそれを信用した(あるいは、信用せざるを得なかったほどの窮状だった)のか、それとも履行されないと分かっていてもその約束をさせ、約束を履行しないという負い目を作らせることで、南朝に対して強硬な態度を出せないようにするといった理由なのか。
 後醍醐天皇の後裔である小倉宮南北朝合体後3代続いたが、その後途絶える。一応何代か続いているように、合一後直ぐに南朝の皇族が直ちに出家させるなどして断絶させたわけではない。
 南朝の皇胤といっても全員が全員小倉宮のように皇位を望んで伊勢へと出奔したように幕府と対立していたわけではなく、幕府体制に同化していた皇胤もまた多い。
 楠木正儀後村上天皇のときに和睦交渉に尽力したが、次代の長慶天皇は和睦を潔しとしない性質であったため幕府に投降したが、その後に和睦派である後亀山天皇に代替わりしたため南朝に復帰した。そして、資料がないから確たることは言えないようだが、後亀山の代で和睦の土壌作りをしただろうというのは面白いなあ。
 南北朝合体した後の後亀山天皇には太上天皇上皇)の尊号が与えられた。少なくともこの時点(1394年)の足利義満は鎌倉以来の皇統不断絶の方針を維持していて、幕府のその方針、両統迭立という呪縛、が南朝根絶に変わるのは6代将軍足利義教になってから。
 伊勢国司北畠氏。北畠満雅、1415年の後亀山の吉野出奔を受けて挙兵し、1423年には鎌倉公方足利持氏と呼応して「南方宮」を押し立てて挙兵して、1428年には小倉宮を擁して、足利持氏と連絡を取りつつ兵を挙げたが敗死した。2度も兵を挙げたのに生きていて、結局3度まで兵を挙げたというのは、なかなかの奇観だな。
 そして彼が敗死した後、赤松満祐の取り成しで宥免・所領安堵されたことで、伊勢国司北畠氏は幕府と接近・従属した。ちなみに赤松がなぜ北畠の宥免に尽力したかについては、北畠顕雅と交渉し、北畠国司家の宥免を条件に小倉宮の京都帰還計画を推進させようとしたからというのは面白いな。
 しかし小倉宮北畠満雅の死後も抵抗の姿勢を崩さなかった。鎌倉公方足利持氏に担がれたら困るから小倉宮の京都帰還を望んだのは幕府で、帰郷後の生活費を有力大名に出させることを約束して帰還を望んでいるというのはちょっと面白い。
 1440年に一色義範と土岐時頼が追討のために出陣している最中に足利義教の命を受けた武将に討たれたというのは、そらまたすごいことしているな義教。その事件があったならば、その翌年に赤松満祐が謀反を起こし足利義教を討つという行動を起こしたのも理解できるわ。