イスラームの「英雄」サラディン


内容(「BOOK」データベースより)

異教徒の侵略に抗して戦い、奮迅の活躍をなすのがムスリム騎士の理想であった。それを体現したアイユーブ朝の始祖・サラディン。十字軍との覇権争いに終止符を打ち聖地エルサレムを奪還したイスラームの「英雄」は、ヨーロッパにおいても畏敬の念をもって描かれた。その生涯を追うことで、聖人化された英雄の、人間としての姿に迫った本格的評伝。



 図書館で読了。サラディンは名前と敵にも尊敬されるような人ということだけは知っていたけど具体的なエピソードとか、どういう出自で当時どういう立場に居たかについては知らなかったので読んでみた。しかしよく考えてみたら十字軍の時代を書いた本を読むのはこれが初めてだな。まさか中東サイドのほうから十字軍を見るのが初めてになるとは自分でも思っていなかった。というか「アラブが見た十字軍」が読んでみたいと思っていたが、それも一般的(?)な欧州から見た十字軍を見た後で読もうと思っていたので、その普通の欧州側から見た十字軍の著作よりも、読みたいと思っていた「アラブが見た十字軍」よりも早く、こうした本を読了するとは自分でもちょっと想定外だったな。
 しかしこの本の註に2度ほど「アラブが見た十字軍」について、「資料の間を歴史小説風に補った部分も少なくない」(P235)や「資料をかなり潤色した記述がある」(P241)と書かれていた。つまり「アラブから見た十字軍」は面白さを重視して、ちょっと正確さを欠いた内容になっているのかな、まあいくぶん盛った部分は見受けられるかもしれないというのは少し残念だが、その分面白くなってそうだからかえって期待感が増してもいるな。
 プロローグで著者はサラディンの墓の『墓守の老人に、サラディンの伝記を書くことを約束したが、刷りあがった本書を持参するまで老人は待っていてくれるだろうか。この約束を果すことも私のささやかな念願の一つである。』(P16-7)と書いてあるが、実際にこの後その老人に渡したのだろうかとすっごく気になる。なので、その顛末がどうなったのか書かれていないのが微妙に気になるわあ(笑)。
 イスラーム文明に対して憧れを抱いていたが、イスラム教徒たちに対して憎悪の感情を持っていた中世のキリスト教徒たちだが、サラディンについては別格で果敢な騎士や智者として物語で描かれている。そしてサラディンには、エルサレム解放の英雄であるので、同時代のイスラーム圏での資料や伝説にも賢者・聖人・英雄というイメージがまとわりついている。2つの文明圏(いくつかの国どころでなく)でそうした英雄的なイメージが濃厚にまとわりついているというのはよく考えてたらものすごいことだよな。
 『サラディンとは、後に付けられた尊称、サラーフ・アッディーン(「宗教の救い」の意味)のヨーロッパなまりである。』(P25)サラディンって名前じゃなかったのか。本名はユーフス。そしてサラディンクルド人だったとは以前何処かで見たときにも思ったが、ちょっと意外だ。ただ、クルド人といっても昔ながらの山岳地方で農耕・遊牧生活を営む民ではなく、「イスラーム世界の政治にも通じた都市生活者」でありアラビア語で教育を受けていた。また、サラディンが生まれたタクリートキリスト教徒がかなり多い町だったというのは知らなかった。
 サラディンの幼少時に、叔父であるシールクーフが一時の感情にかられてキリスト教徒の官吏を殺して、上役から町を立ち去るように命じられた。町の代官だった父も以前にセルジューク朝の君主が没した後に、侵攻してきて敗れたモスルの君主であるイマード・アッディーン・ザンギー(後にザンギー朝を起こす)に、本来捕らえるべきだったのに、手を差し伸べて逃げるのに協力したのでその上役厳しく叱責されていたこともあってのこの事件だったので、父と叔父はタクリートを去りザンギーを頼って、彼のいるモスルへと逃亡した。ザンギーは逃亡してきたサラディンの父と叔父を丁重に扱った。そこで父は高原の町を委ねられた。ザンギーが暗殺された後、セルジューク朝の軍にその町を包囲攻撃されたがよく耐えたが、最後は交渉で町を明け渡す代わりにいくらかの現金とダマスカス周辺にある複数の村落を獲得した。その後ザンギーの息子ヌール・アッディーンがダマスカスを併合したときにその配下にいた叔父とダマスクスに住んでいた父は事前に協議を重ね、ダマスクス無血開城させた。そのように父はなかなか政治的な動きも出来る人だったようだ。また父は無血開城の功もあり、いくらかの土地(イクター)が与えられ、後にダマスクスの町の統治権を与えられた。父は有能なのだろうけど、君主を変えているのに、常に領地を得ているというのは凄いわ。
 エルサレム攻略に赴く十字軍は、土地の人々から「聖地への巡礼団」と見られ、セルジューク朝ファーティマ朝の領域を何の妨害もなく通過した。それどころか、食料の提供や道案内まで受けたのに、その後十字軍はエルサレムで多数のイスラム教徒・ユダヤ教徒が虐殺したという事実には思わず乾いた笑いが漏れでてしまう、痛烈な皮肉だ。
 ザンギーの息子のヌール・アッディーンは容姿端麗で、敬虔かつ真面目、そして常に軍隊の先頭に立って異教徒と戦う勇敢な君主というかなりの完璧超人。サラディンは少年期から、そんなヌール・アッディーンに気に入られて強く引き立てられた。そしてサラディンはその主君であるヌール・アッディーンから十字軍との戦いの姿勢を受け継いだ。
 叔父シールクーフは武将として三度目の遠征にしてエジプトのカイロに入城し、宰相の座を獲得したが2ヵ月後に急逝したので、30歳そこそこのサラディンがそこで宰相に就任した。その時点では形式上はファーティマ朝の宰相であり、また叔父シールクーフもそうであったが、ヌール・アッディーンの配下の武将であった。しかし最愛の家臣の離反に衝撃を受けたヌール・アッディーンがサラディン説得しようとしても、耳を貸さなかったのというのだから、宰相就任時から独立する腹づもりだったようだ。サラディンの十字軍に対する軍事行動が可能だった理由にはエジプトの富が背景にある。
 政権の安定化のためにカイロ市中をファーティマ朝カリフと並んで行進をする一方でエジプト軍から土地没収をして、彼の配下のシリア軍の騎士に分け与えているように、サラディンは敵に常に寛容で慈悲深いといったのは単純すぎる見方で、そうした君主として政敵から権力を上手に削ぐなどの手腕も当然に持っていた。ファーティマ朝カリフが死んで、スンナ派の復活を宣言し、そして硬貨にはアッバース朝カリフとヌール・アッディーンの名前を入れた。無用な混乱を起こさぬため、サラディン自身はスルタンと名乗らなかったが、この時期を持ってアイユーブ朝の時代がはじまる。そしてその後慎重な行動をするようにという父の忠告もあり、敵対行動を取らずにシリアに現金や現物を送って気持ちをなだめていたが、主君であるヌール・アッディーンも扁桃腺の化膿によって死亡した。こうして見てみると、明確に叛乱せずに権力を手に入れているのは、サラディンが宰相に就任した西暦1169年の後に、西暦1171年にファーティマ朝カリフが死亡し、西暦1174年にヌール・アッディーンがエジプト遠征の準備中に死亡と有力かつ理屈の上では相手に説得力があるような敵対者が相次いで死亡したからなので彼は非常に運が良いなあ、良すぎて暗殺したんじゃないかと疑ってしまうほど(笑)。
 ザンギー朝はヌール・アッディーンの死亡後に身内の叛乱が発生したり、周辺国からの侵攻も頻繁になった。そのためサラディンにシリアに来て彼らの王になることを要請した。その時も王としてシリアへ赴くのではなく、あくまで幼君サーリフを援助するという名目で実質的なシリアでの支配権を確立していった。そしてアッバース朝のカリフからエジプト・シリアの支配権を承認されるという形式をとってから、その主権を公に表明した。またその主権を強固にするため、旧主ヌール・アッディーンの寡婦と結婚したが形式的なものであった。娘とか妻ならわかるが、なんで寡婦なんだろう。
 いくつもの国で過激イスマイール派であるニザール派によるスンナ派の要人の暗殺が横行したが、彼らがアサシンの語源となった、中東だとは知っていたが宗派が大本の原因の暗殺だとは思わなかったわ。そしてサラディンもその暗殺者に二回頭部をナイフで切りつけられたが、その斬撃は運良く鎖帷子が防いでくれたため殺されずにすんだ。その後彼らの根城を攻撃したが、落とせずに和解して、その後は刺客をサラディンへと差し向けることはなくなり、サラディンもイスマイール派の拠点への攻撃を中止した。
 サラディンは兄にはかなりの便宜を図って政治的には悪手になってもわがままな要求を呑んでやったりするなど、かなりの厚遇をしていた。しかし兄は酔ってはサラディンを悪し様にいうなど感謝をしていないかなりろくでもない人間だったのに、彼が死ねば、彼の死を悲しんで彼の多額の借金も肩代わりしたなんて、サラディンは近親者にはめちゃくちゃ甘いのね。
 それと現在もエジプトのコプト(キリスト)教徒は人口の一割程度もいるというのは、エジプトはもっとイスラーム一色だと思っていたので、思ったよりも彼らの数が多くて驚いた。日本にいるキリスト教徒と同じくらいかそれよりも少し少ないくらいの割合かと思っていたわ。
 サラディンバグダードにいるアッバース朝カリフから聖戦(ジハード)の許可をとってから、十字軍との戦いを始めようとしていた。十分な名分を得てからでないと動かないという、石橋を叩いて渡るようなのは彼の性格なのかな、結構慎重派だ。
 サラディンと十字軍側が戦争に入った後に、一旦休戦協定を結んだが、ルノー・ド・シャティヨンはその期間中に2度出撃して侵攻しようとして、一度は退路をたたれたので、戻り、二度目はエジプト艦隊の攻撃に敗れた。更に彼はエジプトとシリアを結ぶ隊商を襲い莫大な賞品を奪って、多くのムスリムを捕虜にした。その再三の休戦破りなどでサラディンは激怒して、彼とエルサレム王が捕虜になったが、そのときサラディンは王にはバラ水を与えた(「アラブ社会では、食べ物や飲み物を与えられた捕虜は生命の安全を保証されるのが習慣であった」)が渡されそれを王が一口飲んで、ルノーに渡そうとしたら、サラディンは『通訳を介して「私が水をあげたのはあなたであって、ルノーではない」と述べた』(P183)というパフォーマンスをしたということで、サラディンがどんだけ怒っていたのかそのエピソードでよくわかるわ。ルノーはそれなりにそこで何年かは知らないけど領地を持って城を守っていたのだから、その風習を知っていたと思うので、そんなことをサラディンに口にされたルノーの表情は見ものだったろう。
 『降伏した敵に条件つきで安全保障をあたえることは、イスラーム社会ではムハンマド依頼の古い慣行であった。サラディンが身代金の支払いを条件に捕虜を釈放したのは、実はこの慣行に従ったまでであって、通説でいわれるような寛大で慈悲深い性格のゆえではなかったとみるべきであろう。』(P193)サラディンの個人的な美質ではなく、イスラーム社会での習慣でありイスラーム社会の美質であったのか。
 サラディンエルサレムを奪還した後は、彼が聖地であるエルサレムを奪還したことでバグダードにいるアッバース朝のカリフの嫉妬を招いた。そしてエジプトの民が重税の苦しみで叛乱がおきかねない状況になり、騎士たちに沿線気分も広がったことで晩年のサラディンは厳しい戦いを強いられた。
 それからサラディンはエジプトで政権の座についてから飲酒を断ち、遊びを控えたということだから、生来謹直な人間であるというよりも君主にふさわしい人間として自分を努力で鍛え上げた人だったのか。
 解説で、十字軍来襲当初の中東の人たちは十字軍のことを、キリスト教徒がが宗教的な目的で戦争を仕掛けているという認識は持っていなかったと書かれていたが、それは意外だ。またイスラーム政権が聖戦を掲げて十字軍との対決を強めるのは、サラディンの鳩首であるヌール・アッディーン以降とのこと。