玻璃の天


玻璃の天 (文春文庫)

玻璃の天 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

昭和初期の帝都を舞台に、令嬢と女性運転手が不思議に挑むベッキーさんシリーズ第二弾。犬猿の仲の両家手打ちの場で起きた絵画消失の謎を解く「幻の橋」、手紙の暗号を手がかりに、失踪した友人を探す「想夫恋」、ステンドグラスの天窓から墜落した思想家の死の真相を探る「玻璃の天」の三篇を収録。


 再読。大正・昭和前期といった時代の日常が描かれる小説は大好きなので、このシリーズは好きだ。特に主人公兄妹の会話とかが抜群に好みだ。
 「幻の橋」朝にラジオで日本初の生中継で野鳥の声が届けられていたのを家族で聞いていたのに、一人だけまだ寝ていた兄に大げさにその素晴らしさを吹聴すると、自分も『すずめの合唱で目を覚ましたさ』なんてことをいうので、心の中で大きなお屋敷なら敷地に深い林があるので野鳥のさえずりがやかましいほどだが、『我が家ではどうしてって、そこまではいかない。朝から響くのは、学士サマのさえずりだ。』(P12)なんて思っているのはクスリとくる。この兄妹の掛け合いや関係性は大好きだなあ。彼ら兄妹の何気ないやり取りの一々にクスリとさせられるし微笑ましい。
 しかし雅吉兄さんが友人と映画でやっていた挨拶の真似をするために練習していたというエピソードは微笑ましい。彼のように明るくて口が回るけど、洒脱で軽薄さを感じさせないようなキャラは好きなんだ。
 帝国図書館は現在の国立図書館と読んでいる最中は思っていたからそこで受験や資格を取るための試験勉強している人が多いのは、現在ではそういうところは資料を調べに行くのが主というイメージがあるから意外だ。だけど、wikiでチラッと見たら、戦前唯一の国立図書館で、戦後に国立国会図書館に併合された場所のようだから、現在の国立国会図書館とはまた違うもののようだ。そしてそこでの年齢制限云々のエピソードは、宮本百合子「図書館」というエッセイから来ているようだが、そうしたエピソードが書かれているなら、彼女のエッセイを今度読んでみようかな。青空文庫でも読めるみたいだし、ただwikiを見て一番興味を引かれたのは「十二年の手紙」という獄中の夫との書簡集だけど、これは青空文庫にある「獄中への手紙」のことでよろしいのでしょうかね。
 しかしこの年にこの図書館で自動複写機が日本で始めて導入されたようだが、それまで複写を希望する人はその資料の写真を撮るために写真師を連れてきたということにはちょっと吃驚してしまう。
 新宿駅から「行き先のわからない列車」というのが出発したが、その列車に乗った人も少なくなかったということは、実際にあったことだろうから面白いな。それにそんな列車はファンタジックでちょっと乗ってみたくなるような気分はわからなくないよ。
 今回の事件では犯人に同情の余地があるから、主人公のとりなしで彼に対しての責めは些少で収まる結果となったのは本当によかったよ。
 「想夫恋」綾乃さんに話しかけている場面とかすごくお嬢様っぽいなあ。まあ、そのまんまお嬢様なんだけど、実に小説にありそうな感じの場面だとは思うけど、「わたし」の心情を描いているからありがちと思わせないのは流石だ。
 「玻璃の天」銀座の名物、資生堂パーラーのコロッケは気楽に食べれるものの代表ということもあり、わざわざ食べさせに行くほどでもないので、家族皆が食べたことがあるのに主人公が自分だけ食べたことがないので、自然と兄が自分が連れて行ってやろうと言い出す流れとなったが、「まあ、いささかは、そう流れるよう、わたしも手を貸したのだが。」というのはちょっと面白い。
 雅吉兄さんが与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」という詩について、普通ではいえない真情を吐露した素晴らしい歌だと昔は思っていたが、現在戦争が身近になってくると自分に姉がいてあんな詩を書かれたら、軍内でどんな目に合わされるかわからない針の筵の状態になってしまうから、弟から見たら「恐ろしい姉」だと感じるようになったと話しているが、彼のことは元々好きだったけどこのような軍隊に行った与謝野晶子の弟に同情してそんなことを話したことで個人的に忘れえぬキャラになった。雅吉兄さんはこのシリーズの登場人物で一番好きだな。しかし与謝野晶子は他者の生死すら賭けるのを厭わないというのは本当の思想家だな。
 ベッキーさんが自分にとっても真実を見るのは辛いことだろうに、お嬢様に真実を確かめるかどうか『その判断をお嬢様におまかせするなら、別宮は卑怯者になってしまいます。――参りましょう、明日』(P224)といっているのは、自分自身の辛く複雑な気持ちを抑えきれずに表に出ているが、それでも強く正しくあろうとしているその姿は、常に平静ないつもよりも一層強く気高く見える。
 自分の中の真実を持ち対話が出来ないだろう相手に対話を試みなければならないのかということを、山中で虎狼とであったときにたとえて訴えているのは、彼のその言葉が悲しさがたぶんに含まれているから余計に心に響く。