大江戸神仙伝

大江戸神仙伝 (講談社文庫)

大江戸神仙伝 (講談社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

突然160年前の江戸にタイムスリップしてしまった速見洋介。腕時計を売って得た金千両で、辰巳芸者いな吉と世帯をもち、つつましくも心豊かな人々と情緒あふれる自然に囲まれて、江戸の町に愛着を抱き始めるが―。綿密な時代考証を駆使して、江戸の町並み、暮しぶり、情景を鮮やかに活写。“夜明け前”の日本から、繁栄にゆがむ現代日本の在り様が見えてくる、異色のSF小説

 この本について知ったときから、江戸時代(1820年代)に現代の人間が行ってという設定から、異世界転移で現代知識・技術が活躍という現在でいうところの「なろう」っぽいと感じていたが、期待以上に「なろう」小説的だった。期待通りに、異世界知識&貿易(脚気への衣料として初めは濃縮糠汁、世界を自在に転移できるようになってからはビタミン剤による)チート。たぶん江戸について色々な場所を主人公に見させるために、そうした薬という設定が必要だったのかな。江戸時代と現代を比較して江戸時代のミクロコスモス、全てを無駄なく使用するようことを賞賛して、現代文明批判をしている。しかし江戸のような極めて自己完結的な社会を称揚する本は、最近では結構あるけどそうしたものを30年以上前に着目して称揚しているのはすごいな。いや、そういったものをたたえる動きがいつごろからあったのかは知らないから、少なくとも三十数年前にはないだろうと思っての驚きですが。
 石川さんといえば江戸時代の本を多数表している人だから、そういう人が書いた江戸時代への異世界転移ものということで非常に興味深かったのだが、「あとがき」を読むに、石川さんが江戸時代について書き始めるのはこの後で、むしろこの本を書いたことが江戸時代に強い興味を持つきっかけになったのかな。しかし江戸関連の文献を140冊以上も読んで参考にしており、また文庫化のときに著名な時代考証家の指導を受けて単行本から大幅に修正している。だから転移後の世界(江戸時代)が非常にしっかりと描かれていて、それはとっても素晴らしいことだ。
 しかし現代人である速水洋介が江戸に行っての町の第一印象は単調で地味な大きな田舎町だったり、吉原については批判的に語らせており、また『充分な資金を持った上で中流の生活をしていられたからのことで(中略)棟割り長屋で暮すのだったら別の感じ方をしたかもしれない。』(P238)悠々自適に生活したから、そう感じるだけかもしれないとも思っているように何でもかんでも江戸時代上げということではない。
 主人公はやもめの中年男性で仕事柄科学について浅く広い専門知識を有しているという設定。だが、最初に転移してしまったときに身に着けていて持ち込めたものは限られていて、知識による活躍も脚気の薬一つと小規模なのはいいなあ。まあ、それは過去の時代に介入しすぎると自分の存在がどうなるか不明となるという事情もあったのだが(その割には自在に転移できるとなったら、色々持ち込んだり持ち出したりと徐々にたがが外れてきているが)、根本的には技術があっても道具がないから多くのことを出来ないという問題がちゃんと言及されているのはご都合になりすぎないでいいね、まあ自在に転移できるようになったところからそっちのたがも外れたのだが(笑)。それから主人公は現代で普通の気遣いのおかげで女性にモテて、現代と江戸に妻を持つ。しかしその妻になる人は定型的な人物像なのは、それもある意味「なろう」っぽい(笑)。
 もともとの下町の意味は城下の町の意味なので、地理的には都心の中心部を指す言葉だった。
 江戸に着た洋介は「仙境」からこの世にやってきた者だと思われる。そして彼はどのように説明してよいかわからないし、帰れる当てもないので「仙境」からきたということにする。平田篤胤も「仙境異聞」(今は消滅しているが、以前この本を現代語訳したHPがあったので、そこでチラッとさわりだけ読んだが、もろに現代では典型的といえるほどの騙しの手管を使っていたのに、当時の知識人は真剣にそれを聞いて、そのことについて書いているのはちょっと面白かった記憶がある)を著したということから、当時の人にとっては仙境というのは信じられる存在と説明しているので、そんなに相手の勘違いについて無理なところを感じられなかったのはよかった。
 大名の奥仕えは給金がでなかったが、それは単に箔がつくというだけでなく、振る舞いが洗練されるという教育的(教育的というのは勉強じゃないからちょっと変な気もするけど、そう本文に書いてある)な意味合いも有していたのか。
 江戸に来て早々信頼できる人を見つけて、身につけていた時計を売ってもらい、それが運良く千両にて売れたので、とりあえず江戸に滞在しているときに衣食住に困ることはなくなったのは良かった。
 午の刻、子の刻といった言い方をしたのは江戸時代の初期までで、それ以降は明六ツ、暮六という言い方に変わった。
 洋介が髪型や衣服がしっかりとしているから、抱き合う風習が日本で発達しなかったんじゃないかと洞察しているのはそれなりに理屈が通っていてちょっと面白い。
 江戸について最初に洋介を見て、仙境の人だと思って家に連れ帰り親切にしてくれた医師の涼哲先生に請われて脚気の薬としてビタミンを取らせるために濃縮糠汁を作り、まず最初に瀕死の患者に飲ませて、そのおかげで患者は奇跡的に回復したが、主人公がそれを当然のことと考えず、不完全なビタミン剤で一命を取り留めたのは文字通り奇跡というべき幸運のことだと考えているのは、そう簡単に回復するのが当然だと書かれるよりも運の良かったと考えている方がより現実的だと感じるのでいいね。
 医師の年収は幕府の御殿医で四千両、流行医で千両を一年で稼ぐ(ただ、その収入の中から薬を仕入れるので正確には年商かな)。
 当時の歯磨きは10センチぐらいの木の棒を先のほう潰して、そこに塩をつけて磨くというのは直ぐに捨てるという性質上仕方ないけど、とても原始的に感じる。大昔の歯磨きは知らないけど、この江戸時代のは磨くを方法を見るに歯磨きというのは現在の歯ブラシが出てくるまで何千年と変わらなかったのではないだろうか。
 当時の江戸の芸者屋は一軒で芸者1人か2人が原則で、5人10人と芸者を置くようになったのは西の人が大勢入ってきた明治以降の話。
 自分の家が貧乏人だったから、自分の祖先にタッチして自分の存在がどうかなってしまうかもしれないというリスクを犯さないために、涼哲先生に貧乏人には脚気の薬を回さないように頼むとは自衛策として仕方ないこととはいえ冷淡ね。
 吉原のシーンは全体的に批判的で物語が気詰まりな空気になってしまっているから、その部分を読み進めるのはちょっとしんどかった。
 しかし江戸にいるときは現代にいる彼女・流子のことを徐々に思い出さなくなっていたのに、現代に帰還したとたんに「毎日、きみのことばかり考えていたんだ」という調子のよさには思わず笑ってしまう。
 一度帰還した後に一度自由自在に転移できるようになって。準備万端で物を持ち込んでという展開になり、そういう展開は大好きだから、どうなるのかわくわくして思わず顔がにやけてしまう。転移を自在に出来るようにして、色々なものを持ち込めるようになったのは、それを持ち込むことで主人公に色々なところに首を突っ込ませたり、あるいは持ち込んだものが当時どれだけ貴重だったかを説明するなど、江戸の様々な事物を紹介したいという都合かな。色々なものを持ち込んで、それをプレゼントすることで異世界(江戸)の人たちの驚いているシーンなんて、いよいよなろうらしいなあ、そういうの好きだよ(笑)。
 夏に前田家が氷室で補完しておいた雪というか氷というか、まあそのようなものを将軍家に献上し、それを臣下にも下げ渡したが、そういうものはゴミや泥も多くて呑めたものではなかったというのは知らなかった。
 洋介は江戸と現代を行き来して貿易みたいなことすることをあまりしないことを心がけているけど、極度に用心深かかったといっているけど、その後の行動を考えるとその描写がギャグにしか見えない(笑)。江戸での妻のいな吉の機嫌をとるためにこまごまとしたものを持ち込んでいるし、そもそも薬(ビタミン剤)を現代から持ち込んでいる時点でそんなことを言ってもなあ。さらに『大きな変化を起こしそうにない範囲で、江戸の特産品を、これまでにかせいだ何百両かの金で、用心深く買っておくぶんには差し支えあるまいと思うようになっていた。』(P396)なんてことになって、このずるずると歯止めが利かなくなっていくのはリアルだなあ。一応、まだ大丈夫はもう危険だということだけは言っておこう(笑)。まあ、江戸で稼いでも何にも使えないのはフラストレーションたまるだろうから、買いたくなるのも買ったら持ち帰りたくなる気持ちもわかるが。そういうわけで結局根付とかを現代に持ってきている。
 そして和装のときにその根付の一つを着けていたのを、根付愛好家の老人に見つけられ、そこから現代での根付の話になり、洋介が所有する根付を見せるためにその老人の家に行くこととなり、洋介が何日構えに持ち帰ってきた百数十年前の根付にその老人がとても興奮し感嘆している様を見るのはとても楽しい。
 仙境から来たという設定だから、新幹線を使って現実で移動することを飛天縮地の術といっているのはちょっと笑った。
 涼哲先生の師匠が重い病にかかって、それを治すための薬を持っていくのだが、医者の友人に手紙に記された病状から何の薬がいいのか、何の病気かについて尋ねているが、それを親切に答えてくれた上に、自分が往診に行ってやろうかと言うなんていい友人だ。
 転移が自在に転移できるようになったが、透視してあちらの世界が見えるようになるという設定のおかげで石の中にいるということはない。あちらの世界が見えるという設定はそのためにあったのかと洋介が自在に転移できるようになってようやく気づいた。
 細菌が抗菌剤への抵抗がないからペニシリンがよく効いて、直ぐに効果が出たと説明がされているのはいいね、そういう説明があることですぐに患者の体調が良くなっても不自然さを感じない。
 そうして一日で江戸から京都へ行き、涼哲先生の師匠の病気を回復させて、再び江戸へ戻ってきたという超常的現象を起こしたということもありもあり、涼哲先生は洋介を神棚にまつるようになり、また井筒屋も同様にしていたというのはたまらなくおかしい(笑)。
 最後に転移能力を一旦失ったが、現代にて涼哲先生の著作を発見したことで、再び転移能力が戻るだろうということとあの江戸時代が直接の過去だということが判明した。シリーズの次作も楽しみだ。早速続けて読もうかしらん。
 しかし最後になって江戸にいな吉という妻がいるのは、現代の妻である流子への不貞ではないかという疑問が頭に浮かんだというのは、それまでも江戸と現代を行き来して2人それぞれの元に行っていたのに、今更そこ!疑いもなく不貞だろ(笑)。
 解説を書いている人が、石川さんという小説家を6、7年前(1976、7年)に貸本屋から借りた本を読んで知ったと書いてあり、70年代後半になっても貸本屋があったというのは知らなかったのでちょっとびっくりした。