江戸の備忘録

江戸の備忘録 (文春文庫)

江戸の備忘録 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

信長、秀吉、家康はいかにして乱世を終わらせ、江戸の泰平を築いたのか?江戸時代の「役人の数」「政府の規模」「教育水準」はいかほどだったのか?気鋭の歴史家が民の上に立つ為政者=武士の内実に分け入り、今の日本の土台となった江戸時代の成り立ちを平易な語り口で解き明かす。日本史の勘どころがわかる歴史随筆集。

 新聞などに書いたものをまとめたもので、ほとんどが5ページ以内とかなり短かった。一つ一つが短いため読みやすいけど、すごく面白いとか印象に残るといったこともなかったかな。あと、他の磯田さんの本で一度見たエピソードも結構あるのが難点かなあ。
 織田信長は『怪奇現象など相手にしなかったように思われがちである』(P10)が実際にはそういった怪奇現象を本当か調べて見なければ気がすまない性格だったようで、池で胴体が大人のひとかかえもある大蛇のような生き物がいると聞くと、近隣の百章を借り出して池の水を人海戦術でくみ出して、水量が減ると自ら水中に入って大蛇を探したというのは、織田信長がそんな怪奇について好奇心旺盛な性質だったとは、驚きだ。まあ、その結局(当然のことながら)大蛇なんて見つからなかったわけだけど。
 『おあん・おきく物語』戦国女性が経験した戦いの様子が書かれた書で、老女となったおあんがした昔語りを書きとめたというのだが、籠城戦となって、天守で味方がとった首と一緒に寝ることが平気になったり、弟が目の前で銃撃されたことについて語っているなどインパクトのある逸話が紹介されているので少し読みたくなってくる。けど、現代語訳あるかなとググってみたらあるようだし、短いからネット上でもなんだか読めるようだね。だけど、引用されたエピソードで大体全部のようだから、わざわざ読むこともないのかな。しかし磯田さんがこの書物について言及したことって他の本でもあったっけ。もしあって、感想も同じようなことを書いていたら恥ずかしいわ。
 山岡鉄舟、武士道の究極の体現者。『妻子を養うのは私事であり二の次であった』ため、国事に奔走する浪士を連れ帰り飯を食わせたが、家族は野草や木の実、植物の根を取ってきて食べていたというのはひどいなあ。武士道を本気で極めようとするなら、暮らしが成り立たないということが彼のことを説明されるとよくわかるよ。しかし私事なら妻を取らずひとりで生活していけばいいと思うのだが、きっと武士道にはお家大事という意識もあるから(たぶん)妻をとっているんだろうなあ、一人でやるなら一定程度の敬意をもてるが他人、そういう生活を望まぬ人を巻き込むのはいかがなものかと感じてしまう。
 からくり儀衛門は蒸気船、アームストロング砲、自転車、通信用の電信機などを幕末〜明治に国内で作ることに成功した。蒸気船は知っていたが、自転車や通信機までとは知らなかった。ちなみに彼が現在の東芝の礎となった。
 江戸時代、中国と四国は気候が温暖で米と麦の二毛作が出来たため子沢山で人口が増えたが、関東や東北では二毛作が少なく気候が寒いから飢饉が続き、子供も少なかった。個別では色々とあるんだろうけどやっぱり豊かならば子供が多く、貧しいところだと子供が少ない。ということで小見出し通り「貧乏人の子だくさんはウソ」。
 江戸時代には貧乏人よりも金持ちの方が当然ながら治療代が多いから、『医者は金持ちを大切にし、貧乏人をいい加減に扱いがちだった。』(P111)考えてみれば当然だけど、江戸時代で医者というと、金持ちと貧乏人を分け隔てなく見る医者とかについて語られることが多いから、なんか麻痺していたわ。
 八百長の由来。八百屋の根本長造が、力士は大食いだから多くの野菜を買ってもらうために七代目伊勢ノ海親方に取り入り、囲碁友達となっていた。しかし親方には接待としてわざとヘボな碁を打っていたが、親方が碁会所を開き、そこに本因坊が来たときに八百長と対戦を観ると見事な碁を打っているので親方は自分が騙されていたことを知り、それを吹聴したから、それ以降親方への接待賄賂のことを「八百長」と呼ぶようになった。最初の八百長の意味は現代とだいぶ違うのね。はたしてそこからいかなる経緯があって、現在の八百長になったのだろうなあ。
 十二支に猫がいないのは、中国で干支がはじまった2300年前には中国で猫を飼う習慣がなかったため。それから猫の家畜化に成功した古代エジプトでは『猫を大事にするあまり輸出を禁止。国外に密輸された猫は、古代エジプトの役人が諸国をめぐって連れ戻した』(P167)というのは面白いな。
 日本最古の猫の飼育記録は889年に宇多天皇が書いたもの。『「世間の猫は薄い黒だが、自分の猫だけは墨のように真っ黒」であると誇らしげに記し、猫が寝ると、物差しで身の丈を計って遊び、猫が目覚めれば猫に話しかけた。天皇が猫に「おまえは我が心がわかるのか」と問うと、「喋れないのが悔しいのか、猫は嘆息して首を上げ、我が顔を仰ぎみて泣きそうな顔をした」と書いている。』(P168)というのは非常に微笑ましい記録で、宇多天皇に興味が湧いてくる。、
 武士階級でも離婚率が高く、結婚した4割程度が離婚していたというのは、そんなに割合が多いとは思っても観なかったので驚きだった。
 子供の名前に○子と「子」をつける風習は大正と昭和の特徴で、明治以前は「子」という漢字をそれほどつけていない。「子」という漢字をつけるのが一般的だったのは流行で、一過性のものだったのか。100年も続いていない。
 江戸時代の庶民の多くが非公式に名字を持っていて、名字が名乗れないというのは「建前」で、私信や寺社に寄進するときには名字をかなり自由に使っていたし、また墓に名字を刻むことも多いというのは目から鱗な事実だ。
 明治時代は明治33年(1900年)になっても文官と地方吏員、陸海軍定員を合わせた公務員数が百人中1.3人と江戸時代(初期には4人以上、幕末で2~3人)や現代日本(3.3人)の半分以下で、同時代の欧米と比べても同じかちょっと少な目くらい。
 江戸時代長州藩、全体のGDPに対する税の割合は現代とほぼ同じ。しかし農業、米生産は税率は32.7%と非常に高く、その一方でサービス業や製造業の税率は1.3%とかなり不平等な税金のとり方をしていた。
 江戸時代でも数十万丁の鉄砲があった(現在は34万丁、ただし江戸時代は現代の4分の1の人口)が、銃管理が厳しく許可を受けた人にしか持たさなかった。