シャンペン・スパイ


シャンペン・スパイ (ハヤカワ文庫 NF (116))

シャンペン・スパイ (ハヤカワ文庫 NF (116))

 ロッツの本は2冊目だが、この本は一つの物語のようになっているから、個人的には「スパイのためのハンドブック」よりもこっちの方が読み進めやすかったな。
 著者がエジプトでスパイとして活動していた時の生活が描かれる。大金持ちのドイツ人育種家に扮してエジプトの有力な人々やエジプトでロケットや飛行機開発の仕事をするドイツ人などと交流を深めて、彼らが仲間内の気安さでこぼす軍事的な情報を入手して、その情報をイスラエルに無線で送った。エジプトの有力者にはプレゼント攻勢や馬でのつながりから彼らの社交の場に参入した。
 著者の自信家ぶりは、こういう自信とか度胸がなければあんな派手な、大胆不敵なスパイ活動は出来ないのだろうけど、情報を取る相手への冷笑的な態度とあいまって、いまいち好感を持つことができないなあ。むしろ冷笑的に見られているエジプト人高官たちのほうに同情的になってしまう。
 ナセル政権下にあった1954年に開始された反ユダヤ主義化キャンペーンにおいて、エジプトに在住(土着)しているユダヤ人の資産を没収する政策がなされていた。そして1956年のスエズ戦争で、ヨーロッパ系ユダヤ人は国外追放。エジプト系ユダヤ人は投獄され、拷問や殴打を食らって翌年に釈放されたが、エジプトを去らねば生命の保証はしないと警告された。
 そしてナセルはエジプト軍の再編成を目的として、エジプトに旧ナチ軍人を招聘していた。軍事的に有能な旧ナチ軍人たちがその知識を買われて、そうやって招聘されるというのは考えれば不思議ではないのだが、旧ナチっていうと現在とは時の隔たりがあるから爺さんの集まりという印象が強いから、少し驚いてしまった。
 当時のエジプトはエジプト政府の機関だけでも秘密警察、軍情報部、GIAという機関が存在し、エジプトで活動する外国の機関としてはイギリス秘密情報部、イスラエル秘密情報部、CIA、その他諸々の情報収集機関が活動していたというのは門外漢からは、色んな勢力が入り乱れなかなかカオスな情勢に見える。しかし実はそのくらいの自国や外国の情報収集機関が活動しているのが普通なんてことはないよね、もしそうだとしたらえらい驚くが。
 しかしスパイとして活動して、一旦ヨーロッパに戻ったときに妻となる人(ウォルトロード)と出会って、彼から猛烈にアタックして2週間で結婚にこぎつけたとは色々とすごいな(笑)。そして自分が何をやっているかも早々にバラしてしまったのも、いやあこのエピソードを見ていると彼が優秀なスパイといって良いのかどうかわからなくなってきてしまうな。逮捕された後にそのエピソードを供述したときに、妻も組織にあてがわれたスパイだと疑われたというのも納得だよ。
 馬を買うのに農業省の高級官僚が通訳として(アラビア語が実際には使えたが、彼らの話をひそかに聞くためにわからないという体になっていた)ついてきてくれたときに、120ポンドで売るという馬の所有者に対して、100ポンド以上の価値はないが彼は金を腐るほどもっているから言い値どおり払うことにするからありがたいと思えといって、著者に対してはボラせるようなことはしない170ポンド以上払う必要はありませんよと、双方にいい顔をしながら50ポンドも掠め取ろうとした面の皮の厚さは笑える。結局ロッツはアラビア語がわからないという設定で、農務省に悪印象を与えるのもあれだったから文句を言わずに払ったようだが。
 ゲッベルスの副官だったフォン・レーアスがロッツのことをナチ親衛隊(SS)の上級大隊長と勘違いして、その勘違いを奇貨にして、その集まりでナチの歌を完璧に歌うことでレーアスに自分の推測に自信を持たせた。そしてゴシップ好きのレーアスがその話を広めてくれて、彼の予想通り彼がその事実を否定してもその話の信憑性が増すといった状況になった。そのことでエジプト人の将校や役人に今までより敬意を示されるようになった。そして止めにレーアスの推測を裏付ける偽造書類を作って、封筒を家の中に放り出しておき、そのことについてハウスボーイを叱責することで、その後エジプトの情報機関がその書類を密かに盗み見させた。そのことでエジプトの情報機関に、彼がかつてSS将校であるかについての確信を得させて、ロッツ自身がいくら否定しても彼らが聞き流せるような状況を作った。
 著者が購入した牧場の飼育係が、彼の給料を月5ポンド上げてから、ご主人様(ベイ)から殿様(パシャ)に格上げたというのは実に現金というか、わかりやすくて思わず笑ってしまう。
 著者と同じくエジプトで行動している秘密情報部員に、最近エジプトにスパイを送り込むのが困難になってきたが何か方法がないかと尋ねたら、ロッツが同僚だとは知らない(一網打尽にされることを防ぐために情報部員の各々には面識がない)から「ナチ野郎のロッツみたいに馬の飼育農場を買えば良いんじゃないでしょうか」と進言されたというのはちょっと面白い。
 多大なリスクを負って、気づかなかったという体で秘密の基地に車で突入して、それを咎められたらエジプトの有力者と知り合いということを活かして、コネで無罪放免を勝ち取った。妻と一緒のときに、捕まるリスクが高いにもかかわらず、見張りが野糞をしていたのを好機だとみて咄嗟にそんな行動を実行するとはクソ度胸があるなあ。今まで築いてきた立場を失う可能性もあるのにそんな行動をとったのだから、その基地についての情報はよっぽど重要事項だったのだな。
 逮捕までが唐突だな。じわじわとバレるかもと思っていたとか、予兆があるわけでなく今まで通りの活動をしていたら、一気に逮捕まで。
 尋問に対して『あとで調べればわかることに関しては本当のことを話し、そうでないものについてはもっともらしい嘘をついた。皮肉なことに、マフハースは私の嘘の話はほとんど信じてくれたが、本当のことを言うと疑った』(P195)というのは面白いな。往々にしてちょっと突飛にさえ見える真実よりも良くできた嘘のほうが信じる、人間ってそんなもんだよな。
 ヤミル・ナギーの求刑の演説234〜241とめっちゃ長いな(笑)。
 閉廷する直前に著者は裁判長に妻の無実を訴えるスピーチをして、裁判の公正さについても褒めた。しかし刑務所への帰りの車で、妻が「かわいそうな無実の妻のために、なんて感動的なスピーチをしてくれたんでしょ」と少しおどけながら感謝して、それに対して著者も「僕らのイメージを健全なものにしておく努力だけはしておかないとね」と冗談めかして答えているのはいいなあ。しかし公正云々と随分お世辞を言っていたと妻は指摘したが、判決を見ると厳しくないから充分に公正だったと思うよ。
 判決が下ってより厳しい刑務所であるトゥラ刑務所に移送されてから、イスラエルのスパイで長らくその刑務所にいるため刑務所内で古株の一人で顔がきくヴィクターから便宜を図ってもらった。そうして刑務所内で不便なく暮らせるような物品や情報を貰っているところはいいな。
 その刑務所の医師が、まだ支給された服しかないからロッツの服がぼろぼろなのを見て「新聞で見たのとだいぶん印象が違うね」と言ったので「時の流れというものでしょうか」との返したのはウィットに富んでいて好きだな。
 刑務所内でタバコが通貨代わりとして使われているが1本、2本渡して少しの便宜を図ってもらえ、使用人代わりに一日働いてタバコ5、6本というのは、ちょっとタバコの価値が高すぎないか?なんでそんなにタバコの価値が高いんだろ。
 しかし自分たちが騙されていたということを体面を保つために、公的には認めたくないから、彼のことをイスラエル人と知っていながら最後までドイツ人として扱ったというのはちょっと呆れてしまう。