大江戸仙境録

大江戸仙境録 (講談社文庫)

大江戸仙境録 (講談社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

東京から百六十余年前の文政時代の江戸へタイム・スリップ(転時)した科学評論家の速見洋介が、めくるめくばかりの恋をしつつ、日々、現代人の江戸常識を越える体験をする―。しかしこれは単なるSF的空想譚ではない。綿密な考証に基いて江戸の人と世情をリアルに描いた、新機軸の時代小説なのです。


 1作目の「大江戸神仙伝」が面白かったので、続けて読了。
 冒頭から転移が自在に出来たのは彼一人ではないということを、いな吉からの手紙が投函されていたことで主人公は知る。他の人も転移できると云う事実には、相手がどんな人物なのかわからないからちょっと怖いと云うか不安だったが、そこで登場してきたのが転移生活の長い大先輩(40年行き来している)のお婆さん池野ゆみ。彼女は好感が持てる非常にいいキャラで、敵対関係にはならなそうだったので、なんか速見にあれこれと文句をいうようなキャラだったら嫌だと思っていたから、ホッと一安心。
 江戸では、建物の高さに二丈四尺(7.27メートル)という制限があったとは知らなかったので驚き。まあ、木造だし家事多いから高い建物を作る人はそんなにいないそうだけど。でも、その制限がなければなにか高い建物を作って商売しようとする人も出てきそうでもあるけど。
 伝馬町の牢屋が町の中にあったと言うのは知っていたけど、歌舞伎の中村座市村座があった江戸歌舞伎の中心地がかなり近い場所にあったというのは知らなかった。
 速見は江戸と現代双方に妻があることについて、時代が隔たっているから言い訳ではないと言葉を弄して言い訳しているが、池野ゆみに「そんなへらず口が通用するのは、男同士だけじゃろ」と言われても、『転時能力者の行動を単純な道徳律に従って批判されても困るのだ。池野ゆみにそんなことがわからないはずはないと思うのだが、やはり、女の立場から見ると、洋介のような生き方は多少とも腹立たしいのだろうか。』(P67)と反省の色をまるで見せていないことには笑った。その考えには、女云々ではなく誰もがツッコミいれたいとおもうよ(笑)。
 江戸では活場という大きな生簀で『すずき、鯛、かれい、こち、ぼら、せいご、車海老、芝海老』を育てていた。
 『五歩に一楼、十歩に一閣。皆飲食の店ならずということなし』誇張表現と聞いて、初めて誇張と気づく、今まで真剣にそんなに多ければ採算とれないからありえないだろう、間違っていると思っていたが、そもそもが誇張だったとは恥ずかしい(苦笑)。
 今回速見が交流を持った武士(御家人)の土田孫左衛門の家の役職は、将軍が京都に行く際に『将軍が装束のままあるいは乗り物に乗ったままで小用を足すために用いる道具』を持ってついて行くだけが役目の職で、三代家光以来200年近く仕事がないというのは笑う。その後に幕府が滅亡する前に、その役職を果すときが来るのは彼が転時した時代から40年経って幕末に徳川家茂が京都に行った1回だけだしねえ。
 その土田さんが内職として写本の仕事をしていたが、写本一冊で15匁の手間賃。そして写本を3冊仕上げるのに20日ほどかかる。ページ数は分からないが、日本で写本作るのにどれほどかかったのかについて知らなかったからちょっと興味引かれる記述だった。
 東京に近代的な加圧式水道ができたのは1898年で、市内全域にいきわたったのは1901年ということで、それまで江戸時代以来の水道を使っていたということで想像以上に新式の水道に切り替わるのが遅かったというのは意外だった。
 大先輩の転時者池野ゆみ。彼女は江戸時代人(!)で戦後すぐから長年現代と江戸時代を行き来している。その時代にはじめて転時した後に脚をくじいて、そこで医者の先生に治療をしてもらって、速水と違いその後1日たたずに江戸と行き来できることに気づいたので、治療のお礼に秋刀魚を5匹ほど持っていったら、その先生の奥さんにとても喜ばれたというエピソードはすごくいいね。そして大戦後の食糧難の時代に現代で魚を売って、江戸に戻るときにガラス製品を少し買って帰ったというエピソードも面白い。池野さんのその時代の話をもっと聞きたくなったので、そのくらいしか触れられていないのがすごく残念。
 池野さんが故郷へ甥の顔を見に里帰りするということで、速見が車で彼女の故郷があった場所まで送ってから転時したが、こうやって農村まで扱う範囲を広げるのかとちょっと感心した。そうやって話に無理がないように工夫して江戸時代の様々なところを見せてくれるのは嬉しいな。
 品川に紅葉の遊山のために行くので武士の土田さんと一緒に行ったが、外泊するわけでもない(御家人・旗本は外泊できない)からそんなに遠出ではないのだけれど、彼とか涼哲先生とかもそうだけどわくわくと気分が高揚しているのは可愛いな。
 江戸の処刑場では『古い骨がそのまま打ち捨てられている』という状態だった。
 それから30年も昔の小説だけど洋平の意見は現在でも違和感を持たずに見られて、共感もできる意見であるのはいいね。
 流子も本文中でびっくりしたといっていたが、スイスには1972年まで婦人参政権がなかったということには一瞬嘘だろと疑ってしまった。
 西洋医術で手術道具などの殺菌が常識となったのが19世紀末。そう考えると『考えようによっては、解剖学の知識はなくても、傷口を焼酎で洗う習慣のあった日本の外科医の方が、患者にとっては無害だったといえないこともない。』(P307)というのはへえ、と感心するが、日本で傷口に焼酎なの酒をかける習慣がいつから出来たのか知りたいな。
 いな吉が虫垂炎になり、誰も手術が出来る人が居ないというどうしようもない状況で、池野さんの現代の主治医が彼女は転時できるということを知っている(彼が子供時代に転時しているところを見られて、それからさんざ尋ねられて口を割った)からと、池野さんに主治医への紹介状を書いてもらい、どうしたらいいか速見は彼に尋ねる。そして自分でその施術をしなければならなくなるとは、それしかないとはわかっていても困惑する展開。速見は動物実験で手術したことがあるらしいが、医者ではないのでいな吉に手術するシーンには尋常じゃない緊張感、悲壮感が漂っているな。
 解説に江戸の物語とかでも中国の物語に比べて女性が積極的というのが特徴というのが、当時の書物にも書かれているというのは、昔から草食系なのかとおもって、ちょいと面白かった。
 しかし解説で次作はいな吉と流子の身体が入れ替わり、というようなことが書いてあるので、ついに浮気がばれるのかと思い、ちょっと次を読むのに少し躊躇してしまう。思い展開にならなければいいけどなあ。まあ、そういう重苦しいような人間関係を描く作品ではないから、あまりそこらに分量を多く割かないとは思うが、やはりちょっと不安だなあ。