一〇〇年前の女の子

一〇〇年前の女の子

一〇〇年前の女の子

内容(「BOOK」データベースより)

正月にはお正月様をお迎えし、十五夜には満月に拍手を打つ。神を畏れ仏を敬う心にみちていた時代の、豊かな四季の暮らし。明治・大正・昭和を、実母を知らずに、けなげに生きた少女の成長物語。


 「小さいおうち」でこの本の作者と対談があったことから、この本の存在を知りそれから読みたいと思っていたが、最近図書館でこの本を見かけたので早速読了。
 著者の母テイさん(以下敬称略)の子供時代を描いた本。基本的に村(群馬足利郡筑波村大字高松)での生活が描かれ最後の3章が、女学校時代、東京編(仕事や女子経済専門学校でのこと)、そして最後の章はエピローグ的にそれ以後から現在までのことが書かれている。大正時代の村での生活という、ほとんど描かれない場所のことが色々と書かれているのが興味深い。
 母親がお産で実家に戻ったときに、寺崎の家に戻りたくなかったので生後一ヶ月の娘のテイを送ってそれ以降母娘は再会しなかった。
 そんなわけで父はイワさんと再婚したが、そのときにしたお見合いの方法が、女側の家の縁側に仲人が座り父を呼びとめ、そのとき女性がお茶を出してきて、そこで男側が女性を見て、出されたお茶に手を出したら、『これは願ってもない、いい娘さんだ、よろしく』という意思表示になり(その後にこまごまと条件の交渉があるようだけど、基本的にはそれで)縁談がまとまるというのは、そんな小芝居をしているのがちょっと風変わりで面白い。結婚の条件で先妻の子であるテイを養女にだすことで話がまとまった。その条件は後妻のイワさんが女の子しか産まないと長子相続で長女のテイが家を継ぐことになるという理由もあり、彼女の実家はそうした条件がつけた。実際に女性しか育たなかったが、テイが女学校に行ったということでその異母妹も女学校へ行き、百姓と結婚しないとなって嘆かせたが、結局最終的には戦後に満州から引き揚げてきた三女がこの寺崎という家を継いだ。
 幼時に養女に出されたが、出された先のカクおっ母さんが酷くて、子供の扱いがわかってない人だから、貰った最初は少しだけ優しくしたがテイが可愛げがない子供だったということもあり直ぐに乱雑な扱いになった。まあ、カクさんは本来がさつな人で子供に対して寛容な態度を取れない人のようだし、また家でも仕事を色々とさせていたようだ。テイが小学校へ上がるときに多くの金をせびってきたということや法律に男子のいない家の長女は養子に出せないという法律があったため、祖母や父はテイを家に戻すことを決心して、テイは高松の家に帰ることができた。7歳の少女が高松の家に帰れといわれて、実家まで他人の庭でもお構いなしにひたすらまっしぐらに駆けて、ヒイラギの木に引っかかったらカクおっ母さんが連れ戻しに来たと思い身体を着物がよじって振りほどきながら、少しも休まずにひたすらに走ったというのは、どれだけ家に帰りたかったのか、養子に言った先がどれだけ酷かったのかがわかり泣けてくる。
 でも、そんな中でイワさんの実家の人とかから見れば約束を破っているわけだから、そういう重要な約束を破り、家に置いておく祖母や父はなあ、肉親の情といったらそれまでだけどお嫁さんは家で重く扱われるわけでもないんだから、結婚するときの約束を破るのは頂けないという気持ちもわいてくるなあ。そんな酷い扱いを受けている子がいるのに、そんな感想も覚えるなんてわれながら薄情だとは思うけど。まあ、根本的なところで一番あれなのは長子相続云々という法律があるからいけないんだが、何かしら書類で届け出ることで長子じゃない子が相続できるようになっていれば養女に出す必要もなかったと思うとねえ。
 小学校のわたなべせんせい、小学校6年いっただけの代用教員で本教員のための昇格試験にいつも落ちていた。そのわたなべせんせいは、校庭で小学校を途中で下がって奉公に出されていて字も十分に習熟できていなかったような子供が子守の最中に赤ん坊を背負いながら授業を聞いているのを見て、彼ら・彼女らに聞こえるように窓の近くに立って外を向いて声を張り上げ本を読んだり、字を書くのでも窓よりの端に大きく書いていたというのはいい話。わたなべせんせいはそれからもずっと代用教員だったが、大人も子どももこの先生が大好きだったというのはわかるわあ、いい人だ。
 遠足のときは弁当のほかに何も持ってこず、菓子は役場からいくらか金が出て町から駄菓子を買ってきていた。小さなことかもしれないが、貧しい子のためにもそんな心遣いがあるのは心が和む。
 イナゴ取りの季節は毎日イナゴが夕食のおかずというのはちょっとゾッとするなあ。
 学校の帰り道で汽車がくるのをまって、機関車のかまたきの小父さんにみんなで手を振るとその小父さんは笑いながらキャラメルを一箱、独り占めしないように少し箱の口を開けて力いっぱい投げてよこしてくれた。それで散ったキャラメルを友達と探したあと、普段はなかなか手に入らないキャラメルを楽しんだ、テイが大きくなってからももう一度会いたいと思う人だったというのだから、よっぽどいい思い出だったようだ。
 井戸替えという井戸の底を綺麗にさらう行事があったようだが、今までその行事のことを知らなかったから汚れたらどうするのだろう、あまり汚れないのかな、でも井戸だから空いている時間も長いから汚れそうだけどとかなり疑問に思っていたけど、そういう行事があると知りようやく疑問が解決した。しかし一年に溜まるゴミの量が直径1・5メートルの井戸でそこのぬるぬるとした泥、朽ちた葉、杉の小枝やゴミが水桶100杯分もあるというのは想像以上の量の多さに驚いた。
 しかし小さな魚が最初に引き揚げられ、それは井戸神のお供ということだが、どこからその魚が来るんだろうと思ったが、底をさらったあと再度その魚を入れておくのね(笑)。最初はどこから来たのかはよく分からんが。近くの井戸から入れたのかもしれないが、そもそもの最初の井戸はどうなのよと覆ってしまう。
 川に魚を取るための筌を仕掛けて魚を取ったりして、穀物は言わずもがな、そして栗など様々なものもとっていたようだし、食事の面ではほとんど自給自足の生活をしていたのがよくわかる。
 農家でも貧乏でなく地主というわけでもないが、村の中では大きい方の家で、また村自体土壌が豊かな土地ということもあり農家だから色々と仕事が多いが、困窮などの心配を感じることなく、この村の生活が彼女にとって良い日々だったのかが伝わってくるのがいいね。色々と楽しかった行事のことが書かれているということもあり、読んでいるだけでとても楽しい。
 おばあさんは何でも出来る人で、かなり老成しているようだけど、慶応生まれだからテイが小学校低学年の頃は50そこそこだというのが驚き。それに明治初めの小学校の一回生だった、つまり既に親子3代小学校で教育を受けている人もいるような時代に突入していたのかと少し驚く。
 それぞれの神様(皇大神宮神、大黒、えびす、だるま、カマド神、便所神、井戸神、お稲荷……)に鏡餅を供えていた。鏡餅って一家に一つ大きいのがでんとあるだけといったイメージだったのでそれぞれの神様に供えていたとは知らなかった。
 高松の正月料理の最高の御馳走は鮒の甘露煮だった。夏に遠火で鮒をいっくり焼いて、それから藁鉄砲に鮒を刺してカマドの上に置いて乾燥させる(燻製みたいな)というが、夏の魚がそこまで持つとは驚きだ。そして正月前に3日間かけてじっくりと味をしみこませるという時間のかかった料理。
 イワおっ母さんは働き振りが村でも有名だったようだし、自分から高いものを買ったりしないつつましい人だったようだ。だから年に一度小間物屋がくるときに、おばあさんは小間物屋に頼んで、いい物をイワに薦めてもらい、それに自分が賛同するというかたちでその品物を買ってあげていたとは、いい嫁姑関係だったんだなあ。
 富山の薬売り、寺崎家ではかなり多くの薬を買っていたようだが、それでも15種類くらいだから扱っている薬の量って案外少ないのね。普通使ったものだけ新しいものに取り替えるのだが、薬売りの小父さんもこの家は特別だからと全部取り替えてくれていた。そしてそうやって薬を備えているから、普段は俺の家は病気になんかならないといっている人もいざ子供が病気になると寺崎家に薬を貰いにきていたというのはちょっと面白い。
 紅売り、紅は高価だから飯茶碗のふたくらいの盃の内側を刷毛でさっと一回刷くだけ買う。そして何か御呼ばれのときに上唇下唇に二箇所ちょんちょんとつけて使った。という具合に紅を買うときも少ないけど、使うときも少ない量ですんだようだ。
 無宿者、神社だと静まりかえっていて、知らぬ神がそこらにいるようで怖くて泊まれないが、『その点、墓場はいい。なにしろ、地面の下には、自分とおんなじ人間様が埋まっているのだから、気心が知れている。お寺の墓場の一隅によく古い卒塔婆が山積みになっていた。ご先祖様の命日とか年忌に新しい卒塔婆を上げて、古いのと差し替えるからだ。その捨てられた古い卒塔婆を集めてきて、一枚一枚並べて敷きつめると、大きな板敷きの布団が出来上がる。宿無しの者が野宿するとき、その上に寝っころがると、墓場のホトケ様と卒塔婆に守られて、じつに心安らかに眠られるということだ。』(P175)無宿者にとっては墓場が寝心地のいい、ホトケ様に守られているようで、安心して眠れる場所というのがちょっと驚いた。
 生糸の相場に手を出して財産を失い、それを見かねた父(叔父だから)が檀家を説得して寺に住ませてもらっている貧乏なおじさんの米寿のお祝いに、父は正絹の立派なチャンチャンコを送ったが、それをおじやんはとてもよろこんでこれを着てどこにでも出かけたがって、小学校の運動会のときには予行練習として前日にも行ったという。しかも自分では歩いていけないからリヤカーに布団を敷いて乗って、落ちないように網を巡らせ若い衆に曳かせたというのはその光景を思うととてもシュールだが、そんなことが気にならないほどその服が嬉しいのがよくわかりとても微笑ましい。
 小学校の修学旅行のときに東京へ行ったが、そのとき三越は将来の客になるかもしれないからかとても優しく接してくれて、用意された弁当での食事の際に巾着の袋のなかにおみやげとして和紙で紙が作られた人形があったというのもあって、みんないっぺんに三越を好きになったというのは思わず笑みが浮かぶ。
 テイが女学校への受験当日に、学校の授業のあと受験のための勉強を教えてくれていた細島先生が、朝に家に明かりがないのを不審に思って、ドンドンと戸を叩いて起きろと知らせてくれなかったら、危うく受験できず終わるところだったというのはゾッとする。普段は早起きなのだが、万全を期すために前日早めに寝たら、いつもと違うから、逆にいつも起きている時間に起きられなかったとは試験にいけたから間抜けな話ですむものの、そうでなかったら悲劇的なので、想像しただけで思わず冷や汗が出るな。実際、無事に試験が受けられても、家族があれこれ悔やんでいるのを見ると試験受けることが出来てよかったと心の奥底から思う。しかしそのことで細島先生に感謝して、もうおじやん先生なんていうのは止めようと思っているのは少しクスリとくる。
 電車の本数が少ない(1時間に一本もない)から朝早く行って、学校終わったら直ぐ帰らなければならなかった。
 同じ女学校のクラスメイトに、村に電気が来ていないと聞いて驚かれる。テイが女学校二年(大正十二年)になってようやく高松村にも電気が来る。割合豊かな村でも、そんな町の人たちにとって電気が日常の当たり前のものになってからようやく来るというこの時間的なギャップは、電気が現在の日常生活の中で必要不可欠なものとなっていると云うこともあってちょっと想像がつかないな。
 東京に出てきたテイは私立の工手学校で専門技師の下でその補助の仕事が出来るような教育を受けて、設計図の上にトレーシング・ペーパーをあてて図面を写す技術を習い、それが上手だったので通常の半分の半年で資格が取れ、東京市に推薦してくれ土木局の出張所で日給月給(日給で日曜日は休みだが、日曜日分の給与もくれた)の仕事をした。既に大学は出たけれど……の時代で、筋も良かったのだろうが運も良かったようだ。
 それでも学業をしたいという思いがまだあったので給与をためて、まず女子経済専門学校(校長は新渡戸稲造)の夜学に通った。翌年に出張所が解散になったが退職金が貰え、今まで倹約してきたので、昼間学校に通える目途がついたので、昼間の学校に移りたいといったら理事長の森本先生(創設者で、新渡戸の愛弟子)に感心され、昼間の学校の2年として転入することを許された。
 他の生徒たちの家は中流のインテリの家が多かった。しかし友人たちと一緒に新渡戸稲造の家に良く遊びにいったと書いてあってちょっと驚いてしまう。先生との距離が近いなあ、偉人といわれている人とそんな交流があったというだけでなんか変な尊敬する心が生まれてしまい、そんな心を自覚すると案外僕は俗っぽいなあと感じるよ(笑)。
 この学校は当時の大学から第一級の先生が講師に来ていた。吉野作造我妻栄、古在由重など10人くらいの名前が上げられているけど、この時代の学者の名前知らないから吉野作蔵と我妻栄くらいしか名前に見覚えがないや(苦笑)。
 後年何でもやれたヤスおばあさんが中風に倒れたあと、世話をかけるたびにすまんナ、すまんナと泣いていたというが、それに対してイワおっ母さんが「おっかさん、わたしがヨメに来たのは、おっかさんのこういうお世話をするためなんですがネ」といったということはとてもいい話だ。それを聞いておばあさんがまたないたということを含めてね。
 しかし271ページに四姉妹の写真が載っているけど顔(特に目)が非常に良く似ているから、テイだけ母親が違うとは全く分からないなあ。
 最後テイさんの現在が少し書かれているけど、ちょっと呆けがはじまって、このもの様な天真爛漫さをもっているいるのが愛らしくも悲しい。