聖書を語る

内容(「BOOK」データベースより)

生まれた時から神様に選ばれていると疑わない他力本願のカルヴァン派佐藤優と、あくまでも努力で救われると信じる自力本願のバプテスト派・中村うさぎ。共に同志社大学出身、キリスト教徒の二人が「聖書」「村上春樹サリンジャー」「地震原発」をテーマに火花を散らす異色の対談集。伝統宗教は震災後の日本を救えるのか!?

 普通の対談だと読みやすいけど、いまいち内容的に薄いと感じてしまうこともあるのだが、本書では個人的には神学など馴染みの薄いものが語られているし、面白い話もいろいろとあるし内容的にも面白かった。
 2人は同じ大学出身だが中村が3つ上ということだけど、佐藤の「私のマルクス」を読んで神学部生が学生運動をしていたことを知り、「あの時代に学生運動って、かなり珍しいよね」といっているように、やはりその時代には学生運動は既に、佐藤は「同志社ガラパゴス」といっているけど、同じ大学の中でも普通の学生にとっては縁遠く、無関係な事柄となっていたのね。
 バプテスト派は「自分の行動は自己責任であるという傾向が強い。」ということだが、アメリカのそうした思想・政策もそこから来ているのだと思うだと思うから、どうしても嫌ものとしか思えない。無論どういった思想にも弊害はあるのだろうけど、日本はそういったアメリカを雛形としていろいろと導入して社会的にマイナス名部分が目に見えているから、どうしても反感を覚えてしまうね。無論、個人の信条としたら、文句つけようがないものだとは思うが、他人に押し付けるものではさらさらないとも同時に思う。
 佐藤が所属するカルヴァン派の誰が救済されるかは、既に神様のノートで決まっているという考え方は、今までどうも馴染めなかったけど、カルヴァン派絶対他力的で『他力本願っていうと適当なかんじがするけれど、本当は、すべての努力をして全力をあげてく訓練しても最後の勝ち負けは、これは運だ。どんなに努力を尽くしても、自分で自分が勝てると思うなという発想なんですね。』(P23)という説明を読んで、そういう考え方のほうが共感しやすいし、健全で正しいことだと思うので、ようやくそういう思想を持つカルヴァン派がかなり受け入れられている理由がわかった。ただ、カルヴァン派は選ばれていると思える人間でないとそうした信条を持つことは難しいから、「社会の支配者層の仲の主流派の論理ではある」ということだが。ただ、カルヴァン派の論理は「多くの貧民たちが絶望する論理」と中村は言っているけど、努力絶対主義も自分の地位・財産は、全て努力によるもので、そういう努力をしたから必然的に得たものなんだということで、それも貧者を抑圧する論理とも言えるけどね。
 中村『面白いね。私の目には「自分は神に選ばれてる」と信じているカルヴァン派は傲慢に見えるけど、カルヴァン派から見ると』(ブパテスト派的な)『「人間は努力すれば報われる」と信じる私のほうが傲慢なんだね。』(P24)
 終末遅延問題、なぜ予想されていた時期から1000年以上も遅くなっているのにいまだに終末を信じられるかについて、中村の「食べたら、それは近い将来、必ずウンコとなって出てくる。今のところまだ出てきてないけど、きっと出てくるに違いないことは決まってる。それは未来だけど、過去と同じくらい確かな未来」(P39)で便秘となって出てきていないけど出るに違いないという説明は下品だけどとてもわかりやすいな(笑)。
 イスラム世界では売春は死刑だが、時間結婚という裏道があり、それは『エスコートクラブなどは売春クラブではなく結婚紹介所とみなす。三人結婚しても四人目を空けておき、エスコートクラブで紹介された女の子と三時間結婚して五万円の慰謝料を支払って離婚する』(P43)というものだそうだが、なかなか(無駄に頭を働かせているのが)面白い考え方。
 聖書がヘブライ語からギリシア語に訳されるときに、マリアについて年頃の女と書いてあったのが、処女と誤訳された。福音書にはイエスには弟が居たと書いてあるのに、正教会は弟なのになぜかヨセフの先妻の子供ということにして、カトリックは誤訳問題に踏み込まず、弟が居たということを黙殺している。
 『第二章 「春樹とサリンジャー」を読む』での村上春樹1Q84」について、神学的用語等を用いていろいろと解釈している話は、「1Q84」を読んでいないけど、なかなか面白かった。
 中村の『母性神話にさえ頼れば世の中に希望が生まれると考える男の幻想は、もういい加減にしろよって話よ。』(P91)というのは同意!
 佐藤『福島第一原発にしても、自己責任論が通用しないことですよ。もし震災と原発事故のあいだに因果応報を認めるとすると、あそこで働いてるわけじゃない大半の日本人は、「俺たち関係ないもんね。責任は東電にもってもらいましょ」となるし、そうすると東電の内部では「第一原発の人間のせいだから、あいつらに責任を取らせろ」となってしまう。これは通らないですよ。チェルノブイリだって、炉心を爆発させたのはソ連だけれども、世界中みんな応援した。それは自分たちのところにも災厄が降りかかるからでもあるけど、それだけではないですよね。人間というのは、自分で背負いきれないほどの危害を人に加えることが、時にはあるということが当たり前ですよ。自己責任論者には、そこのところが見えていない。』(P171)
 本来の全体主義は個々の違いを許容する多元的なもので、対極は普遍主義。なぜなら普遍主義は個々の人間を一律に扱い、一つの大きな原理で覆ってしまうのが特徴。そういう意味ではナチスは普遍主義で、思想的な意味での全体主義とは違うとは知らなかった。