オシムの言葉 増補改訂版

内容(「BOOK」データベースより)

言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある―。スポーツの枠を超えて、各界の日本人に多大な教訓を与えたイビツァ・オシム箴言。彼の言葉は、なぜこれほどまでに人の心を揺さぶるのか?祖国の崩壊から、日本代表監督就任、大病、奇跡の復活まで、激動の半生を綿密な取材でたどった、傑作ノンフィクション。

 集英社文庫で一度読んでいるが、新たに11章が追加されているので購入し、改めて読んだ。
 ユーゴスラビアの崩壊前にはサッカー代表の世界でもスロベニアセルビアクロアチアなどのグループが代表に居る各々の民族の代表メンバーにだけ気にかけるようになっていた。そしてイタリアW杯では、PK戦にもつれたとき外したら、メディアからどこの(○△民族の)選手が外したかが問題視され、他民族との軋轢の具となることが目に見えているから約2人を除き、他の選手はやりたがらなかった。そうした単なるバッシングでなく、民族間の溝を深める宣伝に利用されかねないことが、ユーゴ代表の選手たちにキッカーを避けさせた。初読時にはあまり気にならなかったが、今回読んで、その選手たちのキッカーを避けたいという気持ちが、単にはずしたら嫌だなとかでなく、非常に重いものだったということに気づく。そして11章で、オシムはこのW杯でもしユーゴ代表が優勝していれば戦争という災禍は避けられたのではないかと思って、自責の念を持っているということが明かされ、オシムはそんな重い十字架を背負っていると感じていたのかとは知らなかったのでハッとさせられる。
 そしてユーゴ崩壊直前には、代表召集に応じることが家族や親族の安全だったり、『(代表に)行けば、(味方から)自分の村に爆弾が落とされる』(P101)という懸念が大げさな表現ではなく、リアルな心配事として迫ってきていたというのは想像を絶する。
 一つの国だったユーゴが崩壊していくさまを、代表監督としてまざまざと目の当たりにしなければならなかったその無力感はいかようだったことか。
 そして、オシムは代表監督の他にもクラブチームの監督も勤めていたが、自身が監督を勤めるパルチザンは人民軍のクラブが、故郷のサラエボを攻撃して、市民に犠牲が多く出る状況になるなど、想像できないような事態が巻き起こった当時の胸中は察するに余りある。
 勝っても負けても頭の中にサッカーのことしかない、それほどサッカーのことが好きな人間が、代表監督を辞任する際に「サッカーよりも大切なものがたくさんある」と公言しなければならなかったことが痛々しく、悲しみを覚えてしまう。
 ジェフ時代のオシムの通訳だった人は、大学の哲学かにあるクロアチア語のコースに入ってクロアチア語の勉強を改めてしていたが、会話のテストの際に喋り捲った結果、在外クロアチア人の2世3世ばかりの最上位のクラスに入れられて辛かったが、クラスを変えることは許されなかった。そんな彼がオシムの通訳に内定したときに、そのクロアチア語の勉強を教えてもらっていた厳格な女教授に、オシムの通訳をやるので帰国するという報告をしたら、素の表情で驚いて、ちょっと興奮気味に「私のクラスにいて正解だったでしょ。けど、あんたがクラスで一番の出世かもしれない!」と言ってくれたというエピソードはなんか無性に好きだな。
 オシムがする『モチベーションアップとは「アメか、ムチか」ではなく「選手が自分で考えることに向けてのサポート」という姿勢が一貫している。』(P237)
 11章、オシムの祖国であるボスニアはいくつもの民族が入り乱れる国だが、かつて内戦になってしまって、それぞれの民族に対して不信感や敵対的感情が少なからず残る土地となってしまったから、サッカー協会もトップが民族語とに3人居る体制となっていたので、それが規則違反だとFIFAUEFAから国際大会出場停止を言い渡された。そのボスニアサッカー協会を何とか健全な他の国と同じ体制へと作り変える、正常化委員会の委員長に病み上がりながらもオシムは選ばれ、ユーモアを交えた交渉でそれぞれの感情的な対立を抑えながら、粘り強く広範な人間と話し合うことで、そして本人の名声のおかげで、サッカー協会の正常化に成功したので、国際大会への参加が認められ、その後ボスニアがW杯出場を決めた。しかし万全の状況でないのに多くの人との話し合い、折衝、お疲れ様でした、オシムさん。