独立自尊―福沢諭吉の挑戦

独立自尊―福沢諭吉の挑戦 (中公文庫)

独立自尊―福沢諭吉の挑戦 (中公文庫)


内容(「BOOK」データベースより)

閉塞状況にある現在の日本で振り返るべきは、第一の開国すなわち明治維新と言える。明治の日本を思想的にリードした福沢諭吉は、日本をどうしたいと考えたのか。福沢のビジョンと方法を、「独立自尊」の精神を貫いた波瀾の生涯を追いつつ明らかにする。

 福沢諭吉は、彼がどうすごいか、何を成したから称えられているのかがいまいちわかってなかったので読了。「福翁自伝」もそのうち読もうかな。
 福沢が読んだ本の数は、時代的なこともあり、現代はおろか彼の10歳下の人間と比べても比較にならぬほど少ないが、『彼が直面した課題の大きさと、それに対して示した彼の解答の深さ』(P14)が福沢を第一級の知識人たらしめている。
 福沢が居た中津藩は、上士と下士それぞれの中での流動性はあったものの、下士から上士となるのはほとんど不可能だった。
 幕末時に日本屈指の蘭学塾だった緒方塾で福沢は学んだが、その緒方塾でも蘭文のテキストは10冊程度しかなかったというのはちょっと驚くな。
 それだから、しばらくすると読むものがなくなったから、そんなある時に黒田侯が珍しい書物が手に入ったからと緒方洪庵にその本を貸してくれたので、2泊3日塾生数人が徹夜で電気に関する部分を写して、本を返すときは「塾生たちは、その原書をなでくりまわし、まるで親に別れを惜しむようにして」返したというエピソードには思わずニンマリとしてしまう。
 幕臣として二回目の渡米を済ませた福沢は、渡米する前に支度金として400両渡されていたが、贅沢はしないため帰国時にも大分お金が余ったから、中津の母に対して100両と有名なサンフランシスコで写真館の少女と撮った写真を送ったが、それが中津で大評判となって、後の外務大臣青木周蔵もそれを見て、洋学志望となったというのは面白い。
 幕府の遣欧使節団の一員として福沢がロンドンへ行ったときに、ロンドンに留学していた清国の留学生唐学塤と出会い、彼に清国に横文字を解するものがどれくらいいるかと尋ねたら、十数人と返答をされて福沢は衝撃を受けた(日本には当時でも百千の単位でいた)。たしかにその話は、ちょっとその唐さんが誇張しているんじゃないかと疑ってしまうほど、衝撃的だ。
 福沢は長州藩の下関での攘夷の実行について村田蔵六大村益次郎)が、欧米の横暴は許せない、長州は全員死んでも攘夷といったのに驚いたが、『二人の対立は、両者の立場の違いを反映したもので、のちに「痩我慢の説」を説く福沢と村田がそれほど違っていたとは思えないのである。ただ、福沢は欧米に対する不満を託す政府を持ち得ないでいた。』(P94)二人の考えはそれほど違わないというのはちょっと驚きだ。
 『自由主義者福沢が社会福祉に関心を追ったのは一見逆説的であるが、そうではない。競争原理を説くものがセイフティ・ネットを説くのは、ごく自然なことなのである。』(P101)「自然」最近のそうした競争を説く輩は福祉を切り崩して、という人間ばかりだから意外。
 1862年にヨーロッパから帰ってきた時点では、ドイツのような連邦制(雄藩連合)という考えだったが、1867年のアメリカ旅行から帰ってくる頃には幕府は潰さなければならないと公言するようになるなど考えが大きく変わった。その間に福沢は幕臣となっていたが、幕臣になった頃から2度のアメリカ行きの直前までは幕府強化論者(幕府が絶対的な権力を持つことを理想とする)で、第二次長州征伐の前に、長州を徹底的に排撃することを勧める建白書を書き、長州を征伐するために外国勢力の力を借りるのを躊躇すべきではないといっているとは知らなかった。第二次長州征伐が失敗に終わり、福沢は幕府に希望が持てなくなり、薩長などの攘夷勢力にも同様であり、政治から離れて教育に力を入れるようになった。ただ、福沢本人にとって幕府強化論者であったことは黒歴史らしく、「福翁自伝」ではその期間逼塞して暮らしていたと書いて、その事実を隠しているようだ。
 薩長の政府だと思っていた新政府が廃藩置県薩摩藩長州藩を廃して、岩倉使節団が欧米を巡る旅行へと出たことで西洋文明志向が明らかになった、そうした感動の中で「学問のすゝめ」は書かれた。
 福沢は人権に強い主張を持ち、人民の政治参加には慎重な意見を持っており、また大久保は民権論の正当性もある程度認めていたようなので、実は二人の意見には大きな違いがなかったというのは面白い。
 廃藩置県が西郷の決断によることが大きいことやまた戊辰戦争での東北諸藩に対する寛大な取り扱いを知ったことにより、福沢は西郷に対しては深い敬愛の念を抱いていた。福沢が西郷を敬愛していたというのはイメージにそぐわないから、甚だ意外だ。
 「脱亜論」西洋諸国と同じマナーで清国・朝鮮と交際しようという、それまで朝鮮の文明開化に熱中した福沢の敗北宣言としての書。
 時事新報の論説の中の、朝鮮統治を主張するような強硬な論には福沢の筆はほとんど入っていないことが近年の研究で明らかになっており、また福沢個人としては日本は貿易国家として発展すべきと考えていたようで領土拡張路線の発想とは無縁だった。
 福沢の思想に最も近い有力な政治家は伊藤博文だが、伊藤と福沢は何度も対立していたというのはちょっと面白い。