島人もびっくりオモシロ琉球・沖縄史

島人もびっくりオモシロ琉球・沖縄史 (角川ソフィア文庫)

島人もびっくりオモシロ琉球・沖縄史 (角川ソフィア文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

「王様のお妃選びはくじ運が決め手」「タバコ好き琉球人。首里城分煙の先駆け」「琉球王国の公式文書は平仮名」「泡盛は舶来のお酒だった」―。これまであまり知られていなかった独立国家“琉球王国”の姿を、最新の歴史研究とともに大公開。観光ガイドだけではわからない、目からウロコのエピソードの数々。


 今まで沖縄の歴史については、三山時代→沖縄統一→薩摩の侵攻→幕府と清への両属関係→維新後の廃藩置県で併合というわずかな知識しかなかったので、独自の歩みをしていた近代以前の沖縄の歴史については知らなければと以前から思っていたのだが、馴染みのない人名や出来事がたくさん出てくるだろうから出来れば読みやすいものを読みたかったたので、この本のような読みやすそうな本は丁度求めていたところのものだった。それに軽いというか薄っぺらくも見えるタイトルだけどソフィア文庫だから、変なものでもないだろうと思い購入。
 コラム形式で一つの話を数ページで簡潔に説明してあるし、非常に平易に書かれているし、知らなかったことがたくさんあるが興味深いトピックばかりなので内容が頭に入ってきやすい。
 それに著者が歴史家で、あとがきに歴史研究界では常識になっていることを書いたとい書いているように、わかりやすくすると称して、誇張したり極度に単純化したりといったりということもないようなので安心してその内容を信頼することができる。
 そして10〜2世紀の頃に、長時間かけて南西諸島に住む人の骨の形質も本土日本人のものとほぼ同じものとなっていったというのは、縄文以降古代〜中世までが分化していたと思っていたのでこの頃からというのはちょっと意外だった。
 元朝が衰退して以降、日本から中国大陸の貿易航路は、それまでサブルートだった南西諸島を経由したルートがメインルートとなった。それ以降、那覇は国際貿易港へと姿を変じていくこととなる。
 そして沖縄の国家が中国大陸の国家に朝貢を開始したのは1372年とイメージよりもちょっと遅め。それでも三山時代だから、そんなに遅くもないのか?
 対外貿易の最盛期が沖縄島に三つの国家が並立していた三山時代だというのは、なんとなく統一から欧米諸国の船が参入してくるまで栄えていたという勝手なイメージがあったので意外だ。
 沖縄の「伝統」文化が中国の文化に近づいたのは、沖縄が幕藩体制に組み込まれた後の話というのは驚きだ。
 神に捧げる儀式用の口噛み酒「米奇」が戦前まで実際に作られ、神事に使われていた。口噛み酒は「もやしもん」でその存在を知ったが、結構身近なところに近年まで作っていた地域があるとは思わなかったので少しびっくり。
 沖縄の貿易最盛期に使われていた船は、明から払い下げられた軍船だった。ただ、一方で17世紀初頭までの琉球の一般的な船は、中国のジャンク船のような船でなく、和船タイプに近かったようだ。
 室町時代那覇は浮島となっていて、そこで日本人は沖縄人と雑居していたので別々の国だが文化的には近かったことがわかるが、中国人は土の障壁に囲まれた自分たちだけの地域(久米村)で暮らしていたというのはへえ。
 琉球王国はナポレオンが聞いたように武器のない国だったというのは事実と違い、それは19世紀アメリカの平和主義運動において『好戦的なアメリカ社会に対し、平和郷のモデルとして自称琉球人のリリアン・チンなる架空の人物が批判するという書簡がアメリカの平和団体によって出版され、「琉球=平和郷」というイメージが作られ』(P174-5)、戦後の日本で流行した非武装中立論が影響されてそのようなイメージが形成された。
 琉球政府ではひらがなを用い、候文と同じ書き方で文章を作成していたが、本土と異なり公式文書もひらがなを使って作成していた。そのため日本ともまた違う、まあ全部漢文よりも自分たち独自の言葉について記すにはひらがなの方が便利だろうから、ひらがなを採用したのかな。いや、正式な決定があったのか、それともそうした利便性で自然と漢文ではなくひらがなを用いたのかは知らないが。
 琉球王国には仏教王国といえるほど仏教が盛んだった時代もあった。
 現在の沖縄の伝統は、近世(17世紀以後)にそれまでの伝統を破壊する大改革によって出来上がったもの。琉球国内では「日琉同祖」を理由として国家最高の儀礼であった久高島参詣を王が直接行うのではなく代理を派遣するようにした。
 琉球王国は近世に、清との朝貢貿易が縮小しないように「中華」の優等生として振る舞った。それは同時に琉球が日本に飲み込まれないよう中国化することで琉球アイデンティティーを作ろうとする試みでもあった。そして実際に、琉球王国において「琉球人」意識は二重朝貢という状況の中で増幅、強化された。
 琉球政府としては清との朝貢は赤字だった。しかし家臣たちは、慣例となって許可されていた、個人的な貿易で利益を得ていた。
 江戸時代の琉球使節は中国風、異国風を強制されたといわれているが、幕府が求めたのは槍や旗を中国風にせよということだけであり、琉球の正装が中国服だったので、正装をすれば自然とそうなった。それに下級の人は琉装をしていたし場所によっては全員が琉装の場合もある。そうした説が出たのは戦後の沖縄の日本復帰以前の「祖国」復帰運動のさなかでのこと。
 古代から奄美大島のすぐ隣の喜界島が大きな存在感を持ち、奄美近くの地帯は日本から他の南西諸島へ文化的な影響を与えるクッション機能を果たしていた。そして10世紀ごろより喜界島は大宰府の影響下にある一つの政治勢力となった。そして喜界島は日本の文化を南西諸島の文化圏に広めるセンターとしての役割を果たしていた。
 そして喜界島は1466年まで琉球王国支配下に置かれるのを最後まで嫌がって抵抗を続けるも、国王自らが軍を率いた攻撃により征服された。そしてその後もヤマト勢力は奄美奪還を目指した攻撃をしばしば行ったというのだから、文化圏的には奄美あたりは南西諸島のほうが近いだろうけど、琉球王国支配下であるより、日本の支配下にある期間のほうがずっと長かった地帯なのね。ふうむ、それらの地域が鹿児島県に入れられているのは理由のないことではなかったのか。