黄門様と犬公方

黄門さまと犬公方 (文春新書)

黄門さまと犬公方 (文春新書)

内容(「BOOK」データベースより)

かたや修史事業に力を尽し理想の名君と讃えられてきた水戸光圀。こなた生類憐れみの令により稀代の暗君と罵倒される徳川綱吉。ほぼ同じ時代を生き、ともに三男坊でありながら主座に就くことになった両者なのに、後世の評価に天と地ほどの落差が生じるとは―。ふたりの運命を分けたものは何だったのか。史料の森に踏み入り手さぐりで見つけた真の姿が、三百年の時空を超えて今、立ち上がる。


 久しぶりに歴史読み物を読んだが、こういった軽く読めて面白い歴史の本は大好きだなあ。しかし言葉遣いがやたらと口語体というか、雑誌の記事とかブログみたいな感じの文章なのは読みはじめにちょっと違和感があるな。
 黄門様である水戸光圀の死後1年で、彼の伝記や逸話を集めた回想録が少なくとも4冊でていたということには驚く。だが、それらの本は概ね水戸藩公式の本以外でも、水戸藩から要請されて侍医など近しい人が書いたものなどで、それらは先君賞揚のキャンペーンとして書かれたものだったというのはちょっと面白いな。
 そしてその先君賞揚のキャンペーンは、単に自藩の威光のためなどでなく、当代藩主の綱條が『自分は光囲公の実子でこそないけれど、水戸の家を嗣ぐ資格がちゃんとある』なぜなら『光圀公は兄を超えて家を嗣いだことをずっと引け目に感じておられた。だから、ご自身の実子を差し置いて、敢えて兄の子である私を養子に迎えられたのだ。つまりは私を通じて、光圀公は兄の血脈へと水戸の家をお返し下されたのであり、私こそ、始祖頼房公の位牌の前で聖なる認証を受けた水戸家の正しい後継者なのだ』(P22)ということを内外に、特に水戸藩藩士たちに、アピールする狙いを持って行われ、いくつもの書籍が作られた。
 他にも光圀は、綱條は兄と一緒にスペアとして水戸家に来たといっているが、実際はアニの死後に水戸家に改めて請われてきたようだ。どうも綱條の死後に次の代を実子にするかなどで揉めたという事実を、藩に揉め事を起こさないためにも、綱條のためにもなかったことにするためにそんな嘘をついたようだ。
 光圀の兄が長男だけど水戸家の跡継ぎになれなかったのは「兄の家の子より先に生まれてしまったから」ではなく、家光に子供が生まれず、御三家から次代の将軍を輩出するかもしれない状況だったから。なぜなら御三家の中で一番格下の水戸家の嗣子が一番年上ということになると余計な揉め事が起こりかねない。そして、それが原因で徳川の家がバラバラになることを防ぐために、光圀の父頼房は長子相続の原則を曲げて紀伊尾張両藩の嫡子よりも年少の光圀を嫡子と定めた。
 光圀と綱條は過信の障壁もあり、いいたいこともいえぬ微妙に冷めた関係だったのね。儒教的に正しい行いを実行してもやっぱり現実は厳しいものだなあ。
 光圀は隠居後に水戸藩全領を百姓を報奨して歩くということやっていたらしいので、そこらへんは後世のイメージどおりというか、ここがより強調されて時代劇になったりしたわけか。ただ、史実では必ずしも全部純粋にハッピーエンドとならず、ここはわし(光圀)が世話になっている在所だから心して査定してくれといわれたが、逆に検見役人が辛く査定したりすることもあったようだ。そういう風に光圀が行動することで現地の役人と光圀との間に確執が生まれ、それが平凡な日常を送る在所に余計な波風が立つこともあり、それが思い出や伝説として語り継がれることで、「黄門様」のイメージが作り上げられたという説明にはなるほど。
 その後も幕府が当代将軍の血筋が絶えたら、親族の御三家・御三卿から将軍を補ったことを知っているから宮将軍という発想が奇異に思える。しかし宮将軍という発想は、徳川家康が「吾妻鏡」を愛読していて、江戸幕府鎌倉幕府を範として作られ、また大老の発案でもあるから実際にそれが実現していたとしても奇異ではないという指摘にはなるほど。
 綱吉は子供ほしさに僧侶隆光の進言に従ったというのは俗説で、実際には綱吉が隆光に会ったのは生類憐み政策がはじめて出てから一年後のことで、時系列的にありえないことのようだ。生類憐み政策は急進的ではあったが、江戸幕府の体制を文治主義へとかえるための政策だった。
 生類憐みの令政策で、難病の息子の薬になるから吹き矢で殺したところ親子まとめて死罪となったという同時代の資料が残されているけど、実際には病気の息子など折らず単に先代将軍家綱の命日に吹き矢で殺したから島流しになったなど、その政策の悪さを強調するために大げさになった逸話も多いようだ。
 また犬目付けという役人が江戸中を歩き告発しているので、人々は犬のことをお犬様と呼んでいる話も、犬目付けという職はこの資料以外に出てこず、これを書いた著者の他の文章を見ると、政治の話は大げさにして非難がましく語る癖のある人のだったようだ。また、打ち水をするとボウフラがわいて、その水を他の人が踏むといけないから打ち水もできないという話も、この著者によるジョークが元ネタのようだ。
 また生類憐み政策では、同じ罪(よって馬をきりつけた)でも町民は無罪で下級武士に対しては追放処分と、武士たちを重く処罰している。そして、実際に資料で確認できる生類憐み政策の処罰例が69件で、その処罰にも重いものが少なく(重罪のほうが記録に残りやすいだろうに)、そして最初の数年にその処罰例は集中していることから、実際にはイメージよりも罰は厳しくなく、最初の数年は多く処罰するもそれ以後はあまり処罰しなくなったことがわかる。
 そうして年月を経て生類憐み政策は、穏やかに事実上あってなきがごとき政策となったというのが実際のところだから、『従来信じられてきた『徳川実紀』描くところの家宣の生類憐れみの令破棄宣言は、新井白石の文飾にかかる、史実としては信頼できないもの』(P228)のようだ。
 そして綱吉の治世を経て、実際に「手討ちや試し物がすっぱり姿を消すという大きな風潮の変化があった」ということなので結果として綱吉の狙い通りの変化、文治主義への移行、を果たしたということのようだ。