江戸名物評判記案内

江戸名物評判記案内 (岩波新書 黄版 313)

江戸名物評判記案内 (岩波新書 黄版 313)

内容(「BOOK」データベースより)

江戸時代の中頃、名物評判記という情報誌が次から次へと出版された。それはしかつめらしい学者先生から小説家、役者、遊女、町娘、さらに虫、魚、瓜にいたるまでありとあらゆるものを評判した。著者はこの第一級の風俗資料によって、当時の流行の最先端と人々の旺盛な好奇心、活発な批評精神を明らかにし、江戸の面白さを縦横に描き出す。


 「評判記」という『役者評判記に擬して戯作せられし稗史、名物、能楽より、古銭、遊女、相撲等』さまざまな物についてあれこれと論評する本について紹介する本。タイトルから江戸時代に評判になったものを書いた本だと想像していたが、その想像とはだいぶ異なった本だったな(笑)。
 宝暦4年当時に出版されるのは、それまで読み物類で主流だった浮世草子が年に3冊程度刊行されるくらいで他のジャンルは、2、3年に1冊や多くても年に2、3冊という状況だった。そんな中で、談義本という『享保の改革における将軍吉宗の意を体して、官民共に教化運動が一しきり活溌化し、そこに生じた教訓本と称する読承ものが、次第に教訓一辺倒から脱して、適当に滑稽性や思想性を伴った大人の読み物に成長していった場句に生じてきた作品であり、成熟した大人の文芸である戯作を用意する位置にあった作品群』が宝暦4年の正月に一編に12冊も刊行された。そして、それにともなって「千石篩」という役者評判記の体裁を取りながら、それらの小説を論評する本も出た。しかし当時の出版点数少ないなあ、写本が多かったんだろうとは想像できるがそれでもその少なさには驚く。
 江戸時代の歌舞伎芝居では『贔屓の役者の登場や、その芝居の最高潮の場面になったとき、しばらく演技が中断されて、あらかじめ定められた贔屓の客が登場し、その役者を褒めたてる言葉を捧げる』(P43-4)。そんな[『演劇世界の中断など全くおかまいなしで、役者の個人的な魅力に酔いしれ、観客を代表した一人が舞台に参加する』という習俗があったことは知らなかったが、なかなかの奇景だな。
 『詩文という文学は、儒学をおさめた士大夫が、自己のなかの学問なり思想なりを発表し、表明する最大の手段としても存在する。逆に言えば士大夫の自己表現は即ちそのまま文学であり得たし、文学とはそのようなものとして把えられた。』(P49)儒学と文芸。
 「戯作の最も基本的なスタイルはパロディ」であるということは知らなかったわ。
 宝暦年間(西暦1751〜63年。9代10代将軍の時代)の間に文芸類が出版されたのは年に20冊ちょっとというのは現在から見るととても少なく感じる。まあ、写本を加えればもうちょっと数はあるのだと思うが。
 それから当時の娯楽読み物は正月出版が原則だったというのは知らなかった。
 『江戸の書物には「物の本」と「草子」の区別が大切である。れっきとし「物の本」とた思想伝達あるいは人性の理法を伝えるものが「物の本」であり、その場限りの慰み草として読み捨てるたぐいが「草子」である』(P146)江戸時代にはくっきりと二つの分類がわかれていて、草子の類は今日の文庫、新書サイズで、物の本はもっと美濃判、半紙本だった(草子の倍近くの大きさ)。
 天明期までの戯作界は、学者・文人に支えられたジャンルだったが寛政期以降、卑俗化して、学者たちが遊ぶ場所ではなくなっていった。
 『本来文芸の趣味は男女共に不良少年、不良少女を作り出す温床であること、江戸時代といえども、徂徠学流行以来は通り相場』(P182)徂徠以降へえ。
 後語によると『「名物評判記集成」というようなものを一冊、できるだけ面白そうな、また資料としても役立ちそうなものばかり、二十点程を選んで刊行』(P225)したようで、それらは面白そうだけど古文苦手なので、読めないのは少しだけ残念かもしれない。