古代技術の復権

森浩一対談集 古代技術の復権 (小学館ライブラリー)

森浩一対談集 古代技術の復権 (小学館ライブラリー)

内容(「BOOK」データベースより)

現代の生活の中には、意外なところに古代の技術が息づいている。考古学者・森浩一氏が各界の第一人者と対談。古代人の生活と知恵をさぐる。


 対談集。古代の話というのは、難しくてわからないことも多いけど、これは対談というだけあって非常に読みやすくていいな。
 対馬長崎県だけど長崎とのつながりは案外少なくて、長崎よりも福岡とか山口からの船が多く、古代も沖ノ島が中間にあるその航路が重視されていただろうというのはちょっと面白い。
 『『隋書』百済伝を見ると、西暦六〜七世紀ごろの百済領などは、高句麗の人も、倭人も、若干の中国人も住んでいると、多民族雑居的な雰囲気に描かれているわけです。しかし、『倭人伝』では、対馬にしろ壱岐にしろ、そういう外国人が住んでいたという状況は出てこない。』(P23)耕作できる土地が少ないなどの理由があるにしても、朝鮮に近い土地だが、倭人だけしか住んでいないというのはたしかにちょっと意外だ。
 『この島には朝鮮製の文物が多い。それだけを博物館の一室に集めると、いかにも朝鮮色濃厚という感じがする。しかし、これらを対馬のすべての出土品の中に置くと、それらは、倭人がつくり、あるいはもたらしたもので、なによりも、倭人が愛用していたものだということが、永留さんのお話を通して痛感させられる』(P35)
 黄砂の季節である3月に寧波から小舟で近くの舟山島に渡って、そこからジャンク船で潮(対馬海流)に乗る場所まで漕ぐと、そこから何もせずに一気に五島列島まで全行程15時間、唐津湾まででもわずか20時間で行けるというのは驚きだ。800キロを平均20ノット(37キロ)の速さでそういった船によって大陸から日本まで来ることできるという事実は驚き。
 妻問い婚はある段階でのことで、彼らも歳をとったら同居していたというのは知らなかった。
 「日本は中国以外の最古の絹産出国」だというのはちょっとビックリ。しかし弥生時代の絹織物が日本製だということが目の粗さでわかるとはちと悲しい事実よ。弥生時代前期末からそうした絹製品が出土するが、それを日本にもたらした人は蚕の特徴から華中方面に住んでいた者らしい。
 明治時代にも産銅量は世界でベスト10に必ず入っていたというのは知らなかった。
 銅鐸は自然銅で作られているので、原料を輸入して溶かして作られていたという説をとなえる人も多いが、朝鮮は銅が少ない土地柄だということもあるので、おそらく実際は国産の原料(自然銅)を用いていたようだ。
 銅のさびの緑青が猛毒というのは、明治時代に出た食中毒で調理していた鍋に緑青が発生していたことからそれが原因だとされ一般に信じられる通説になったが、実際には『当時は、電気精錬していないので、もとの鉱石に含まれていた砒素が残っていて、酸化して毒性の強い亜砒酸に変化して、それが中毒の原因になった』(P206)ようで、緑青は猛毒ではないとのことだ。
 土器を作るには上質な粘土が必要だが、それを取れる場所は限られている。そしてそうしてできた土器が交易されたというのはちょっと目からうろこというか、もっと簡単に作れるものだと思っていたから、集団ごとに土器を作る人間が居たのかと思っていた。
 7、8世紀の鋸から、日本では鋸が独特な発展をしていた(中国のものとは違う)ことがわかるようだ。
 中世の茶臼は高級品で偉い坊さんくらいしか持って居ないものだったので、鎌倉幕府の一五代執権の北条貞顕(一二七八〜一三一三)が、『おれはなんとしてでも茶臼がほしい、という手紙を書いていて、その手紙が金沢文庫に残ってい』(P358)るように武家の最高峰の人間でも容易には手に入らないものだった。