ログ・ホライズン 8 雲雀(ひばり)たちの羽ばたき【ドラマCD付特装版】



 ドラマCD付の特装版の方を購入。
 今までのこのシリーズでは、この世界にある程度適応できて、元の世界に帰るにしろ帰れないにしろ、それなりに時間がかかりそうだから、この世界で関係を築いていこうとしていた人々が主に描かれていた。しかし今回は適応し切れず、異世界にやってきたという現実に絶望し、この世界で関係を築いていこうと思えなかった人々が描かれる。
 しかしイラストのロエ2が思った以上にシロエで笑った。彼女は航界種であり、おそらくシロエのサブアカが独自の人格を持ったものであろう。そんな彼女のことを美女と言っているのだから、シロエも実はそんな描写ないけど他人から見たら美形だったりするのかな。いや、まあロエ2にそんな表現をしているのはミノリだから、あるいは好きなシロエの面影があるということもあって贔屓目に見てそんな表現しているのかもしれないので、判断に迷うところだが。ただ、彼女はシロエとはずいぶん性格が違うなあ、知的だし、知的好奇心が強いところは似ているけど、なんか性格はシロエというよりも、web版ではずっと以前に登場していたが、書籍版では次回ついに登場するカナミっぽいという印象を受ける。
 トウヤのサブ職会計士か、そういう情報は以前にも出ていたかもしれないけどすっかり忘れていないので、章ごとの見開きのキャラクターの紹介のページ(正式には、なんていう名前なんだかしらんが)で、所有しているアイテムの説明文でそう書いてあるのをみてイメージと違ったのでちょっと意外に思った。
 冒頭のルンデルハウスが五十鈴の演奏を喜んで聞いているけど、彼自身は音楽の適性がなかったから楽器演奏できずに応援係をやっているというのは、大地人にとって曲は42曲しかなかったし、新しい局は作れないということを知ると本人のセンスだけの問題じゃないと思うので(たぶん)、なんだか切ないような気持ちがわいてくる。
 前回、クラスティが失踪して3ヶ月。裏で大きく今後のヴィジョンを描くのはシロエがやっているにしても、そうしたシロエの考えの深いところまで理解して協力して動いてくれて、求心力も高く、アキバでも随一の政向けの能力がある(本人は別にそういうのが好きというわけではないだろうが)クラスティがいなくなったままなのはアキバ、円卓会議にとってはすごく痛手なことだということを、こうして彼がいなくなった状況を見ると彼の存在が大きかったこと共にそのことを痛感する。
 残されたギルドのD.D.Dも、No.2でクラスティがいない今トップとして動かなければならなくなった人間が高校生だというのもあって厳しい状況みたいだ。
 年少組だけでの旅をすることに、彼ら彼女らが行く前から非常にワクワクしているし、旅の最中でも非常に楽しそうにしているので、読んでいて面白いし楽しい。もしもの時のお目付け役としてにゃん太が密かに見守っていたようだ。一人でそうやって移動するのだったら、彼以外に料理つくれる人がいないから、妥当というか、他にできる人は彼以外いないよな。
 街道沿いなら通常は出てくるモンスターは10前後、ああ、だから交易とか移動ができているわけね。そして以前のチョウシでのサファギンの襲撃の印象が強くて、海にはモンスターが出るという印象が強かったが、大地人の漁師もいるくらいだから、モンスターの脅威もない海もあるようだね。
 この世界に音楽が42曲しかないのを知らず、彼ら彼女らにとって五十鈴が演奏する曲が途方もなく素晴らしい贈り物に聴こえただろう、その重さを知って、五十鈴はそれに釣り合う演奏していたわけではないから、その歌の歌詞を、メロディを、意味を届けようという途方もない真剣さをもって向き合っていたわけではないから、恥ずかしく情けなくて泣く。しかしそうした事実を知って真剣にショックを受けたり恥じ入ったりするということは、本当に五十鈴は音楽が好きなんだなと思う。
 飛ばされてきたこの世界を受け入れ切れず、異世界に無断でつれてこられた世界に対して、それなら自分も勝手にしてやるというように社会への期待も従属もしない決断をしたロンダーク、あるいはこの世界云々を顧慮せず(結果的に人助けもするし、興味ないから悪さもしないが)、ただもとの世界に戻るためにひたすらにあがき、がむしゃらに行動している望郷派の人たち。そうした彼らのような、自らがいる現在の現実(異世界)に適応できなかった者に対する理解があるのがいいね。そうした者に一方的な糾弾をするわけではなく。そんな彼らに対して理解して、彼らの論理を否定できないと感じつつも、なおも言葉よ届けと祈るように語りかけているにゃん太班長の格好良さよ。にゃん太班長の素晴らしく理性的でバランスの取れていて優しい人柄を感じる巻。
 ロンダークのいっていることは、社会と契約していないのだから自然状態にあり、自分は社会に行動を規制されない、そんな自分に対して社会は暴力をもって除去、あるいは屈服できるかもしれないけど、自分を除去(処罰)するならするがいいが、それでも自分のその考えは変わらないし、社会に屈服しないということよね。
 そしてこの世界に無理やりつれてこられて、人道を守ってもらってないのだから、自分がこの世界で人道なりルールを守る道理もない。
 戦争状態で、一人の人間も多くの人間の集まりの社会も数の違いはあるけどそれだけ。数の違いというだけで、数を暴力を振りかざせはしても正しさがどうのということは関係ない、一人を正しくないと名目をつけて彼を除去してもそれは結局多数が少数を排除するだけで、戦争状態にあるからそれは大国が小国相手に戦争をして勝つことと変わりなく、その勝利(除去)が正しさを担保するものとはならない。
 そうしたロンダースの考えは非常に共感するものがあり、否定できないし、しようと思わない。それに彼が陰謀・策謀をしているのではなく、この世界の住民である大地人が主導して、それに雇われているだけだから、なおさら何もいえないよね。
 そして同じように感じている、にゃん太はそれでも言葉をつむぎ彼に言葉を届けようとしているのが素敵。どの世界でも生まれるときには誰も同意をとられず、無理やりに産み落とされる、そういってはいるけど、だからと言ってそれでもその人が味わうその人だけの苦しみを、誰もがそういう状態にあるのだから、我慢しろとは言えないと思っているのがいいよね。
 望郷派にトウヤが食ってかかるのは、彼の信念の表れで、彼のその信念の強さが抑え切れず言葉として迸ったのだろう。
 彼らの行動にモヤモヤするのはわかる。しかし五十鈴とかも彼らを否定しきれないといっているからいいけど、彼らに当たるものではないからな。
 彼らに義務全くないし、なんだったら外面から見たら自分の命をすり減らしながら果敢に戦っているし、それで町を襲うモンスターと戦っているいるのだから、自分たちの損害を全く顧慮せず動けとか、自分たちにとって最大に厄介な脅威相手への策として、戦い方を変えることを批判するのはなあ。
 その正義感というより信念で、彼らの意思を考えず、能力と彼の<冒険者>としての理想から、自分たちの損害を無視しろと一定の行動を求めるのはちょっと。
 できることを全てやる、そうしたことをして社会を善導する人(シロエとか)は素敵だけど、だからといって、全ての人にできることのあらゆる一切をしなければならないというような価値観は息苦しく、窮屈なもので、どうも苦手だからな。
 まあ、それでもそうした状況を見るとトウヤみたいにカッとなることもわかるけどね。五十鈴のように腑に落ちないと思いながらも、それを認めるというスタンス
 五十鈴。43番目の歌で、新たな魔法を作る。
 特典ドラマCD。
 「レイネシアの優雅なる一日」レイネシアのアキバでの仕事ぶりについての話。
 アミノ酸系調味料など、日常でよく使うものについては独占を図ろうとするのではなく、情報を流して大地人に良いものを作ってもらおうとしている。まあ、冒険者にとっては、生活の苦しさとは無縁だろうし、まだまだ冒険者(現代人)的には必要なものが色々あるから、ある程度筋道ができたものは他の人に作ってもらったり、質を向上してもらうことで生活を便利にしたいんだろう。また独占しようとしないのは、やっぱりこの世界に定住する、長くいることを考えていないからというのもあるだろうな。
 「ガールズトーク・妄想編」ナズナ、ソウジロウが本気になったら全然受け入れるのね。いや、そうなんだろうなとは思っていたけど、姉・友人的なものかもとも思ってもいたので、明確に描写されてなんかすっきり。
 「銀の弓vs黒の剣」ウィリアム、アイザックの対戦。台詞だけだけの戦闘シーンなのに面白くて、良かったな。ウィリアムらがススキノに行く直前の話。てとらはススキノに行く話を聞き、ここでウィリアムにあって彼らとともにススキノに。
 てとら、子供っぽくてあざとすぎる声で、実は男(少年)といわれればそう聞こえないこともないような、中性的な声をイメージしていたから、違和感が。
 「ゴー!イースト」次についに発売となる海外編のあとのエピソードというか、小シーン。