ドイツ史10講

ドイツ史10講 (岩波新書)

ドイツ史10講 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)

ゲルマン世界、神聖ローマ帝国宗教改革、絶対主義、二回の世界大戦…二千数百年の激動の歩みを、一講ずつ、要点を明確にして、通史的に叙述。中世的世界、大学や官僚と近代化の役割など重要なテーマに着目しつつ、つねに「ヨーロッパの中のドイツ」という視点から描き、冷戦後の統一ドイツの位置にも新たな光を当てる。

 前々からこの本とか「フランス史10講」とかは気になっていたのだが、今はそんなに関心がないからと後回し後回しにしてきたのだが、4月の消費税増税前に本の買いだめしようと思って購入してようやく読了。
 ドイツ史を10個の時代に分けて、それぞれの時代の特色や変化が簡潔に読みやすく書かれている。短いページ数なので、細々とした事情に立ち入らずに骨となる部分、出来事を中心に書かれているが、そうした歴史の本は好きなのでありがたい。馴染みがないのにスラスラ読めてしまうほど非常に読みやすい。しかしもともとドイツの歴史についてろくに知らないから、個人の名前とかは、短いページで書かれていることもあり、逸話とかは触れられないので覚えられないが、ドイツの歴史の流れを把握するのには役立つし、他にある程度本を読んでもう一度読んでみても、今回読み流してしまっているところに面白いところが見つかりそうだ。
 フランク帝国の時代には、国家=教会が一致していて、またその国家の内がカトリックキリスト教世界の全てであった、「フランクの支配圏とカトリックの布教圏が事実として一致していた」ということは、中世のカトリック一色のヨーロッパ世界のイメージが強いので、驚いてしまう。
 神聖ローマ帝国時代1122年の「ヴォルムスの協約」は『要するに教皇と皇帝が聖職者の叙任権と世俗的権利を分け合い、なお権利行使の優先権は地域で分け合ったという妥協』(P34)だが、これによって教権と俗権が原理的に分けられた。
 ポーランド貴族に招請されて、現地のプロイセン人を教化しつつ、そこにドイツ騎士団国家を建設した(後のプロイセン王国)というのは、プロイセンの成り立ち知らなかったから面白かった。しかしわざわざ呼んだポーランド貴族に何の得があるのだろうか、その国家がそのポーランド貴族に服属していたのかな?よくわからん。
 ルネサンス時代の造形芸術の最大のパトロン教皇で、教皇領での収入ではそれらの出費を賄えないから出したのが、贖宥状(免罪符)であるというのは、もう色々と俗っぽすぎて頭抱えるな。
 ルターの教会批判からアウクスブルクの宗教和議に至るまでプロテスタント側が生き延びた理由として、皇帝は30年代フランスやトルコという敵が居て、敵を圧倒する機会を逸したことと、ドイツ諸侯が皇帝の強大化をおそれていたことなどがあげられる。
 神聖ローマ帝国三十年戦争により大きな川の河口を全て外国に取られるというかなり厳しい事態になっていたとは知らなかった。でもまあ、実質的にそれによって利益が削られるのはその河口を所有していた諸邦の国だけなのだろうけど。
 三十年戦争で人口が30、40%も減ったという説は現在ではとられていないそうだが、人口が戦前の水準に回復するのに3世代もかかったというのはその被害の大きさをうかがわせる。ただ、それでも以前の説、一般に思われているよりも早いというのだから、かつてはどんだけ三十年戦争で荒廃したと思われていたのやら。
 ウェストファリア条約で、各諸邦が独自に条約を結べるようになったが、それだからといって神聖ローマ帝国が有名無実の存在となったというわけではなく、中小の諸邦にとって存在の支えとしてあった。たとえば裁判は遅々として進まなかったが、それでもそこが国家的な係争の解決の場として中小諸邦には頼りにされていた。つまり「一種の域内平和機構として機能したという評価もあり、さらにヨーロッパ共同体の先駆的も出るとする見方もある。」(P100-1)というのは驚き。そしてヨーロッパ統合を夢見た19世紀のフランス人サン・ピエール師という人も、ドイツの状態をヨーロッパ平和統合のモデルになると考えていたようだ。
 プロイセンという国家は神聖ローマ帝国の外にあったので王号(1701年以降、スペイン継承戦争オーストリア側に立ったため)を持っているが、同時に17世紀のはじめにプロイセンの家が断絶して、親戚のブランデンブルク選帝侯がプロイセン公を兼ねる形で一緒になったということなので神聖ローマ帝国プロイセンは、イギリスがフランスに領土を持っていた時期のフランスとイギリスみたいな関係だったということか。またそうした事情から、領地が飛び地となっていた。
 ナポレオン支配下でライン連盟諸国となって、ドイツという枠組みは一端消し飛んでしまったが、そのときの改革でプロイセンが力をつけ、ドイツ地域の指導国になっていく。
 プロイセンを中心に1834年に関税同盟が作られ、経済的には一つの国(オーストリアは機械設備が遅れているため低関税となると不利益になるため入らなかった)となった。1866年にはオーストラリアとの戦争でオーストラリア川に加わった諸邦をプロイセンが吸収して北ドイツの大半がプロイセンのものとなった。そして残った北ドイツの諸邦を参加に納めて、北ドイツ連邦が作られる。そして南ドイツの諸邦とも攻守同盟、関税同盟を通じて結ばれていた。その後、普仏戦争で南ドイツの諸国もプロイセンとともに戦って連帯感を持って、またドイツの結合が自由主義者などからも望まれていたため、ついに北ドイツ連邦に残った南ドイツの諸国が加盟して、ドイツ帝国が建国された。このようなプロイセンからドイツにどう移行したかについて、どうもあやふやだったので、今回こうやって簡潔にわかりやすくそのあたりのことを書いてあるのを読んで、すっきりした。
 連邦制は国会では野党でもそれぞれの州で独自の政策を実践することができるため、民主主義に柔軟性をあたえているという話には目からうろこが落ちた。
 しかしあとがきによると、最初から「フランス史10講」「イギリス史10講」とセットの企画で、さらにいくつか続く本が出るはずだと書いてあるが、最初の3つの本がでるのに10年もかかっているのは、なんというか学問世界、岩波書店はずいぶんと長いスパンでとりくんでいることに驚く。今もって入るのが17版だから、それなりに売れているのだから、きっと○×史10講シリーズの続編も出るのだろうが、このスパンでは次は何年後なのかわかったもんじゃないな。