ハーレムの熱い日々

ハーレムの熱い日々 (講談社文庫)

ハーレムの熱い日々 (講談社文庫)

出版社/著者からの内容紹介

黒人スラム街にともに暮らし、黒人たちを撮り続けたフォトジャーナリスト吉田ルイ子――貧困・麻薬・売春・差別に象徴されるニューヨーク・ハーレムで、人間が人間であることを取り戻すことに目覚めた黒い肌の輝きを、女の感覚とカメラの冷徹な眼でヴィヴィッドに把えたルポルタージュ


 60年代の米国の黒人運動が熱心に行われ大きなムーブメントとなったハーレムの一般的な民衆の変容を書いたルポ。著者はカメラマンでもニュース性のあるものを追っていくという人ではないので、黒人運動の最前線を追い続けた記憶というわけではないが、それゆえに著者と交流のある普通の黒人の人たちの様子だったり、日常的なハーレムの変化の様子が見て取れる。ブラックナショナリズムが台頭してきて、ハーレムではブラック・モスレムが演説広場で演説するところから、身近に変化の兆しがあらわれた。しかしこうした運動に、革命家がでてきたりするのはこのくらいの年代ならではだよなあ。まあ、著者もそういった黒人革命家、左翼団体に対して取材などをしているうちにどうもかぶれているようだが、あるいは時代的なものなのか知らんがもともとそういう考えだったのかもしれないけど。
 著者がカメラマンだから、写真がかなり多く収録されていて、場所のイメージがしやすい。
 著者は白人の夫とハーレムのアパート(日本でいうマンション)に暮らしていたが、白人警官に黒人少年が射殺されたことによる暴動によって、車などが壊され夫がショックを受けたこともあり引越しをした。それから夫が今まで人種差別的なことはいわなかった、それどころかそういったことを少なくとも観念的には憎んでいた人なのに、その時に思わず黒人に対する汚い言葉を吐いたところから、たがが緩んだのか、そういった発言を口にするようになり、夫婦仲が冷え込み離婚に至った。
 『アメリカでは、車が二十五ドルで買えるが、使えるカメラは二十五ドルでは買えない。』(P45)車が恐ろしいほど安いことに驚いた、無論そうした車はボロで色々と問題の多いものなんだろうけど、それでもその安さには思わず目を疑ってしまうし、物の価値が少しわからなくなってしまうな。
 しかしハーレムでは私生児の比率が全米位置で3人に1人ぐらいだということはちょっとその比の大きさに驚く。
 ハーレムで著者が撮った写真を渡したら喜んでくれたということが、著者がカメラを勉強するきっかけになったようだ。
 黒人カメラマンでもハーレム取材に色々と武器を持ち歩いているというのはちょっとショック。しかしそんな中でも著者は幼く見えるという外見が逆にそういった厄介ごとをガードしているのか、武器を持たずにすましているし、大きな厄介ごとには巻き込まれなかったようだ。
 63年当時でも、といっても現在よりも50年前だが、自分より色の黒い黒人を軽蔑したり、黒人自身が白人よりも劣っていると感じていたようだ。そうやって抑圧されて/してきたからこそ、黒人運動が盛んになったときに、運動家たちが自分たちの色に自信を持つようにアジったときに大きく衝撃を受けて、ブラックナショナリズム、黒人運動が一気に大きなものとなったということだろう。1964年中の2、3ヶ月の間で一気にニグロではなく、ブラックだという声が街のあちこちであがりはじめた、ハーレムの空気の変化がここで起こりはじめた。
 著者がアメリカの広告会社に入ってすぐに、営業から大切な客で、彼が変わった子を求めているからと、友達を紹介してくれないかといわれて、最初は断っていたのだが、黒人の売春婦で革命家みたいな一面もあるジェシーを紹介したというエピソードは、売春婦とはいえ友人を結局紹介してしまうところに著者の弱さなのかもしれないけど、単純/純真で品のいい/良識ぶった人というわけではないということなのかもしれない。
 今まで差別されてきて、白人の世界観を丸呑みにしていきてきたということもあり、黒人の誇りを謡っても白人崇拝が根っこのところに残っているから、同じ黒人の異性を好きになりたいのに、そうした人よりも白人の異性を好きになるというジレンマがあって悩んでいたようだ。
 しかし共産主義が差別を打破しようとしている運動家たちの間で強い先導力をもっているということには、時代を強く感じるなあ。著者も少しかぶれていたようで、そうした人のもっている問題意識について、自分の体験・ルポの合間にちょくちょく言及している。
 著者が日本に帰ると決めたことを話した後の、著者のアシスタントで、カメラの才能もあったクリスという黒人少年とのエピソードは好きだな。互いを思う師弟みたいな関係と、お互いに少し異性として意識しているけど、それを秘めているということがいいな。
 しかし文庫版あとがきでの、文庫になると友人に話したら「ついに君の本も古典になるか!」と冷やかされたという挿話は、時代を感じるなあ、現在では文庫化したら古典なんてまるで思わないし、むしろそういった意識がかつてはあったということにびっくりしてしまうからな。