漢字伝来

漢字伝来 (岩波新書)

漢字伝来 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)

およそ二〇〇〇年前にやってきた中国生まれの漢字を、言語構造の異なる日本語の中にどのように取り入れたのだろうか。朝鮮の文化的影響を強く受けたその伝来の初めから、漢字文化が確立して、漢字に基づく片仮名・平仮名が誕生するまでの軌跡を興味ぶかいエピソードを交えてたどる。日本の漢字音と中国原音の対照表を付す。

 岩波新書は学術的な内容で読みづらいからあまり買わないのだが、これはちょっと面白そうと思ったので購入。
 出土した金印(漢委奴国王印)から『一世紀ころには漢字が日本列島に伝えられ、日本人は漢字と接触していたと推測』(P5)できるということは、ある意味当然のことではあるが、実際に日本人が漢字を用いた文章はもっとずっと後だから、そういえばと虚を突かれたような思いを抱いてしまう。4世紀末から5世紀のはじめごろには百済の学者によって漢籍が持ち込まれて、日本で漢字、漢文の学習がされ始めていたようだ。しかしそれは一部の上層の人々であって、同時期の国産の鏡に文字がついているが鏡に付いている呪符として理解していたから、形が崩れて模様となったり、元となった鏡の文字から文字の欠落があったりというのだからまだまだ漢字の使用は浸透していなかった。
 そして5、6世紀にいたっても漢字の使用は多くはまだ渡来人の手にゆだねられていたようだ。
 聖武天皇の母が亡くなったときに大規模な写経が行われた。その時の記録によると、写経だから当然整った文字で、誤りなく書き写さなければならないが、それでも筆の早い経師で5900字、遅いもので2300字ぐらい、平均して3700字を写していた。また用紙一枚は17×25行の425文字ほどが書かれていたようなので、多い人で14枚弱、少ない人手5枚弱が書かれていた。
 聖武天皇の母が没したつきの8月は29日しかない月だったが、その月には多くの経師が29日、つまり毎日出勤していた。古代とかだと、仕事がそんなに多くなかったというイメージをなんとなくもっていたのだが、大変なところは大変なのね。
 そしてそんな中で休暇願いに記されている、休暇の理由として「穢衣(汚れた衣服)の洗濯のため」だったり、宿舎に泊り込みで仕事をしているため赤痢・疫痢や腹痛などの行基で休暇を願い出たり、あるいは長時間座り続けるため、腰痛や足の病で休暇を願い出ているというのを見ると、古代の経師たちに人間味を感じて一気に親しみがわいてくる。
 また、そんな状況だったから写経生たちが新しい衣服だったり、食事の改善、毎月5日の休みがほしいというような要求をしていたようだ。こうした古代に生きた人たちが見えてくるようなエピソードは本当に面白いな。
 法隆寺の天井の組木に記されたおそらく職人が書いた落書きから、7世紀または8世紀のはじめにはかなりの程度庶民にまで識字層が広まっていたようだ。でも、そうした建築の専門家はかなり教養高そうだから、庶民なのかなと少し思わなくもないけど。
 しかし「峠」や「辻」が日本で作られた国字であるとは知らなかった、……単に忘れていただけかもしれないが(笑)。
 漢文の訓読は7世紀末ごろより行われ始めていた。現在のウイグル自治区でも漢文訓読が行われ、新羅にも漢文訓読が行われていていたようだが、朝鮮には言語的問題もあり根付かなかった。
 漢字にひらがな、かたかなを交えて文章を記すという日本語の方式は、ベトナムとか中国を征服して騎馬民族の王朝だったり(モンゴルはチベット語[サンスクリットを参考にしたもの]を参考にして新しい文字を作ったから、アルファベット的なものだが)は新しく自分たちの漢字的な文字を作ったりしているので、わりと日本のように新たにオリジナルな文字を作るのでなく、漢字をそのまま受け入れるのでもなく、漢字にひらがなを混ぜてをつかうというのはわりかし特殊なのね。まあ、15世紀半ばに作られた朝鮮の諺文は、日本語のように漢字交じりでもいけるだろうけど(詳しくないから知らないが)、それも漢字を混ぜて、使うことを想定して作ったわけではない独自の文字だからなあ。
 西夏文字女真文字ベトナムのチュノムのような漢字をまねて作られた文字は、ことごとく消えていってしまっているというのはちょっと面白いというか興味深いところだ。