火星の人類学者

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

内容(「BOOK」データベースより)

すべてが白黒に見える全色盲に陥った画家、激しいチックを起こすトゥレット症候群の外科医、「わたしは火星の人類学者のようだ」と漏らす自閉症の動物学者…脳神経科医サックスは、患者たちが抱える脳の病を単なる障害としては見ない。それらは揺るぎないアイデンティティと類まれな創造力の源なのだ。往診=交流を通じて、不可思議な人生を歩む彼らの姿を描か出し、人間存在の可能性を謳った驚きと感動の医学エッセイ。

 この著者の本は以前から読みたいと思っていたのだがようやく読むことができた。著者は脳神経科医で、さまざまな奇妙に見える症状に先天的、後天的に悩まされる人たちを実際に会って取材して書いた本。
 『色盲の画家』交通事故により脳の色を見せる部分にダメージを追った結果色覚を失い、灰色の世界に生きることになった画家のI氏。しかし色盲というのは、単に色が見えなくなるだけでなく、記憶の中や夢の中でも色を見れなくなり、好きな絵の色はどんなものかということは知っているのに、その絵を前にしても、記憶の中でも色を見ることができないものだとは思わなかったので、色が失われることの大きさは想像以上のものだ。
 そうして色を失ってから色の付いた絵を描いたが、知識としての色を元に絵を描いたが、他人にはさっぱり意味がわからないものとなり、白黒写真に撮ってみてはじめて意味のあるものとなった。そして彼は事故後は、当初は葛藤がありながらも白黒の絵で自身の新境地となる絵画群を生み出していった。
 灰色の食べ物では食欲をそそらず、目をつぶってみても思い出せるのはその灰色のものばかりだから、はじめから白だったり黒だったりする飲食物を好むようになった。
 著者らは、というか現代医学は、根本的な解決を与えてあげられないようだから、読んでいてこの圧倒的な喪失に対して何もしてあげられないのかと悲しくなってきたので、I氏が中間的な波長の光のときに図形がもっとも明瞭に見えたから、緑のサングラスをかけることを提案して、そのおかげで外に出るときやカラーテレビを見ることが楽になったとI氏が喜んでいるのは、何かしてあげられて本当によかったなあと素直に思えたし、一つでもしてあげられることがあったということになんだかホッとした。
 事故直後から1年あまりは色を知っているといっていたが、時間を経ることでどうしたものが正しいものかというのが実際にはわからないから、徐々に確信が薄れていった。そして色への関心も薄れていって、65年色のある世界に生きていて画家でもあったのに、色についてもうよく理解できないようになり、そして先天性の色覚異常者に似てきた。
 そして色を失ってから、人の輪郭は800メートル先でもわかるという見通せるという具合になり、夜に4ブロック先の車のナンバープレートが読めた。
 『最後のヒッピー』大きな脳腫瘍をわずらったことで盲目となり、また60年代以降の記憶を覚えていられなくなってしまった男性グレッグ。自分が盲目であることもわからず、テレビを「見ている」(実際は音声から想像しているのだが)と感じているという記述を見て、盲目となっても自分では気づかないという状態もありえるのかと思って、かなり驚いた。さらに彼だけでなく視力を失った直後の数ヵ月後に幻覚を見て、「見てごらん!」なんていうことはよくあるということだ。
 グレッグとは直接には関係ないことだが、この章ではロボトミーについてちょっと記されていて、そこで目と眼球の間から前頭葉にアイスピックで切れ込みを入れるという恐ろしい方法だった。そして前頭葉を切除する手術を最初に行った医者にノーベル賞が授与されたという事実には愕然とする。……こうした話は以前にもどこかで見た気がするし、さらに感想に書いた気さえする。でも、あまりのおぞましさに毎回のようにその話を聞くと新鮮な恐怖を感じてしまう。
 グレッグが父親の死を伝えられてから、その死をきちんと覚えておけないのに、ふいに夜中に起きて「なにかをなくしたんだ、なにかを探しているんだ」といっているのは胸がズキリと痛む。そうしてグレッグが長く沈んでいるのを見て、著者は彼が大ファンのグレイトフル・デッドのライブに連れて行き、そこで彼が覚えていない70年以降の楽曲を披露して、それを聞いて「未来の音楽」に戸惑い困惑しながらも、とても興味を引かれているのやコンサートが終わって非常に高揚しているのを見ると、良かったなあと思うのだが、コンサート直後には「今日のことは決して忘れないよ。人生で最高の日だった」といっているのに、翌日には既にライブに行ったという事実を忘れてしまっている、大きな感動さえ手からミズが零れ落ちるように失っていくという現実は物悲しい。
 『トゥレット症候群の外科医』トゥレット症候群には痙攣性チック、他人の言葉や動作の無意識な模倣、くりかえし、無意識ないし衝動的な罵言や汚言などの症状がある。本人がどれだけそうしたくないと思っても、抗えない強迫観念のようにそうした症状が出てしまう。しかしベネット博士は手術中には非常に集中しているのでそうした症状は一切出ないそうだが、それでもなんとなく危なっかしいように感じてしまう。
 『「見えて」いても「見えない」』幼少時から視力がないまま過ごしてきた人が、中年になってから、自分が手術で視力を取り戻せる状態であることを知り、手術を受けて視力を得た男ヴァージル。
 視力を得ても最初は顔を、それが顔だとはわからないというのは、見たことがないのだから考えてみれば当たり前のことではあるのだが、顔を顔と認識するというのは当たり前のものすぎるから、その最初認識できなかったという事実には驚いてしまう。
 手術後何ヶ月、何年と経っても空間と距離の認識が難しく、かつて15歳で盲目となり、その21年後に視力を取り戻した知的能力が高い人にしても、それは同じで盲目であるときよりも歩いているときの不安が大きかったようだ。
 写真などはまだらに色が付いた紙としか思えず、術後数ヶ月経って、写真がなにかを写しているということに気づいたというのは驚き、テレビも同様で平面と立体がそのように明確にわかれて、コンバートしているものは上手く感じ取れないというのは興味深い。
 視力を回復した人たちは最初は視力を得たことの喜びは大きいものだが、その後は深刻な鬱状態に陥ることが多いそうだ。盲人でなくなって、晴眼者となることで周囲から求められているハードル、期待があがるということがある。しかし眼が見えるようになって普通の生活ができるようになるということは、今まで眼が見えていた人が盲目の世界になれて普通に生活できるようになるのと同じくらい難しいというのは目からうろこ。
 大人になって脳が出来上がっているのだから、子供と同様に速いペースで眼が見える世界になれるというのは困難極まりないことのようだ。だから「晴眼者としていったん死に、盲人として生まれ変わらなくてはならない」というある患者の言葉があるが、その逆もまた真実。
 今まで触覚で物事を認識していたから、見ていても触って確かめたほうが認識しやすいし、深い認識を得ることができる。
 ヴァージルは視力が回復した後強いストレスや困難にぶち当たった。その後しばらくして彼は病気で再度盲目となったが、そのことによって精神的な平穏を得たようだ。
 『夢の風景』幼少期に暮らしていた村が、眼前に見えてくる症状に襲われ、それを絵に描いているうちに画家になった男フランコ
 『神童たち』一瞬見ればその風景を描くことができるという自閉症の天才画家スティーヴン。
 『火星の人類学者』高機能自閉症の農学助教授の女性テンプル・グランディン。シンプルな感情ならば理解しやすいが、複雑な感情はあまり理解できない。彼女は非常な努力と観察の末に、普通の人がやるような人の行動の予測を、論理的な作業として行えるようになった。
 『夢の風景』以後の章は、個人的にはあまり関心が、というか驚きは少なかったので、いまいち書くことがない。『夢の風景』はいまいち重大性が理解できないし、自閉症の画家の人の話は以前にもテレビでもそうしたものを見たことがある。あるいはまったく同じ人かもしれないけど、なのでいまいち驚きが薄い。そして『火星の人類学者』は本人の努力があるからこそではあるのだが、病気と知らなければ、少し風変わりな人物であるなあというこという印象で終わってしまうなあ。