疫病と世界史 上

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)

疫病と世界史 上 (中公文庫 マ 10-1)

内容(「BOOK」データベースより)

アステカ帝国を一夜にして消滅させた天然痘など、突発的な疫病の流行は、歴史の流れを急変させ、文明の興亡に重大な影響を与えてきた。紀元前五〇〇年から紀元一二〇〇年まで、人類の歴史を大きく動かした感染症の流行を見る。従来の歴史家が顧みなかった流行病に焦点をあてて世界の歴史を描き出した名著。


 以前からずっと読みたいとは思っていたがようやく読了。マクニールの本は何冊も積んでしまっているのでそろそろ読み崩さないと重い読了。しかし、想像以上に読みづらかったな、特に序盤。今まで持っていなかった視点が一杯だから。
 疫病と世界史が書かれたのはエイズが同定された6年前で、1976年当時は『医者たちの多くが、感染症なるものは人間の生命に深刻な影響力を及ぼす力をもう持っていないと信じていた。科学的な医学は病原菌に対して遂に決定的な勝利を収めたと思ったのだ。』(P11)という風に楽観的だったというのはちょっと意外だな。それから男性の同性愛者にHIV感染者が多いという話で、1984年にはサンフランシスコのゲイたちの77.1%がHIVに感染していたというのは、今まで保守的な道徳感性からゲイの感染率の多さについて多少大げさにそうした話を言っているのだと思いっていたので、そんな風にめちゃくちゃ多いようなものだとは思わなかったので驚いた。まあ、もちろんひとつの都市だけの感染率だけど。
 しかし、それよりもマクニールがこの著作を世に出した当時はスペイン人のアステカ征服のときに、自分たちはスペイン人がもたらした病で人口の数分の一を失っているのに、相手はその病でまったく死なない。そういう状況が起こったことが、それまで持っていた自分たちの宗教を捨てて、多くのネイティブ・アメリカンたちがキリスト教に改宗した理由だという説明にはとても合点がいった。そう考えたら、キリスト教布教がスムーズに言ったのも納得できるわ。
 初期の人類は微生物やウィルスなどによるミクロ寄生と、大型の肉食獣によるマクロ寄生の狭間に生きていた。その後人類が技術を高めて言って、大型の肉食獣が脅威でなくなった頃には、征服者が食物を奪い取りそれを消費することで、征服者・統治者は労働に従事する者にとって新たな寄生体となり、征服者によるマクロ寄生が始まった。
 感染症の媒介者にとっては無害、穏やかな形で作用するものでも、ヒトにとってはその感染症の生体物は人間に適用したものではないので激烈な形で作用をして、破壊的な猛威を振るう。感染症の生体物にとっても自分たちが寄生する相手には、自己の繁栄のためにもすぐに殺してしまっては自分たちの絶滅に繋がるから、穏やかな形で作用する。今までヒト側がその病気に適用した、耐性が付いたという観点しか見たことがなかったので、そうしたウィルス・微生物側から見ると彼らが寄生する生物に適応しているという見方もできるのかと思ってちょっと目からうろこだった。
 たとえば、トリポノソーマ・ガンビエンセの感染による睡眠病の一つの形は、進化してヒトの宿主に適応して、一方でサバンナ地帯では有蹄類の宿主が多くいるため彼らに適応したため、人類にとって致死性の高い形が残った。なぜサバンナ地帯では有蹄類に適用したかについてはそこではヒトより有蹄類の数が多かったからヒトに適応してしまうと絶滅の危機があるためだ。そのように実際にウィルス・微生物側から進化して適応がなされているのだという説もあるようだ。
 サハラ以南のアフリカでは汚染と感染が特に豊富で、ヒトの数や増え、人口密度が高くなると感染の度合いも高くなり、過剰感染・疫病が起こり、人口が調整されるというサイクルが繰り返されるためヒトが際限なく数を増やすることなく、他の生物との安定した均衡を保っていた。つまりそうした感染症が『きわめて効果的に人類の活動を妨げていた。』(P65)
 しかし人類は北のより温和で動植物の数が少なく、つまりそれだけヒトに寄生するリスクのある生体物が少なく、感染リスクの低い土地へと移動することで、その繁殖能力を遺憾なく発揮して、爆発的に人口と活動範囲を増大させていった。寒冷な土地では大型の動植物との生態的関係に依存する度合いが強められるが、熱帯地方ではあれほど人類の発達を阻害してきた微小な寄生体とのバランスが重要でなくなる。
 特に温帯・寒帯の風土に人類が移動した初期は『低温・寒帯の条件にした微生物と、それらが宿主間を移行する方式とを作り出し、それによって、世界の温帯・寒帯の風土に入り込んでいく狩猟民の、しかも少人数ではほとんど孤立した共同体の内部に、熱帯と同じレベルの感染と汚染を維持されるようになるためには、とても時間が足りなかった』(P72)ため、そのときの狩猟者は寿命は短かったが健康的ではあった。
 しかし人類が増加し都市や文明が誕生して大きな共同体になったことは、微小な寄生体がその猛威を振るう好機となった。
 海の資源が組織的に開発され始めたのは氷河期以降なのか。意外なのか意外じゃないのか自分でも良くわからない、だって氷河期はマンモスとか大型動物を狩っているイメージで氷河期だから寒い海に入って死ぬというリスクもあると思えば、そしてカヌー、船を作る技術があるかといえば?となるから当然だとも思えるし、海産物はずっと昔から人類は食べてきたんだ、おいしいし、という印象もあるから意外とも思えるが、まあ、なんにせよなんかちょっとへえと思った。
 灌漑農法をすることで生じる病である、住血吸虫症に感染したら、その土地の農民は肉体的疲労と慢性的な不快感により、無気力で衰弱した存在に化してしまいがちになったということだから、各時代において、時の為政者から怠け者の農民と見られていた人たちはこの病気に感染した人たちだったのかな。
 ウィルス感染症は、その感染症とはじめてであった集団の中では、莫大な被害(死亡率)をその集団に与えるが、およそ5、6世代(120年から150年)で集団はその新しい病気に対して示す反応が沈静化する。
 ただ、すべての病がヒトの集団で恒常化されるわけではなく、ただ莫大な損害を与えて消えていった病もあれば、その集団に一時流行して、その後何世代も置いて、その病気に適応していない世代に再び大きな損害をもたらすようなパターンがある。ちなみに後者は十分な人口がない辺境地域に多く見られる。
 オーストリアハプスブルク帝国は、主要な町はドイツ語が話されていたので、多くの市民はどの民族でもドイツ語を取得しようとして数世代後には言語・意識共にドイツ人となるというサイクルが続いていたが、19世紀初頭のペストの流行によって都市の住民が多く死亡して、新たな住民が数多く入って、それらの住民の数が増えた(わざわざドイツ語を話さなくても都市生活ができるようになった)ことで、やがて民族主義的理念が根を起こして、その後半世紀でプラハチェコ語ブダペストハンガリー語が使用される年へと変わったという具合に、近代においても一つの病気が都市の運命、帝国の運命を変えたというのは、著者が最初のほうに言ったとおり、普通はあまり強調しない側面だからそれを知って驚いた。
 文明社会は多くの病・感染症を持っていて、それに適用しているため、それまで孤立していた小さなヒトの集団との接触のときに、スペインのアメリカへの侵略での例ほど劇的でなかったにせよ、彼らが保持していてそれに適応している病が小集団には命を奪い取る疫病として機能した。そのことは文明社会にとっての一つの武器であり、そうした病は概して社会の青年層に対して最大の威力を振るう場合が多く、そうすると精神的・物質的な自立が難しくなり、そうした病が複数くると独自に保っていた伝統も捨て、文明の傘下に入りその文化に染まっていくことになる。
 ただ単に軍事力だけでなく、そうした感染症による病気も文明が自分が影響力を持つ地域の範囲を拡大していった一要因であるというのは、今まで考えたことなかったが面白いし、ありえることだと思える。ただ、それは軍事的なものと密接に関連しているため、記録に残りにくいということだ。そして文明への憧れによる同化というものは、同じ文明に入るということは一番下からのスタートということになるから普通は入りたがらないだろうに、周辺地域や異民族を文明が同化していったのは、そうした疫病の力もあるのではないかという推論も面白い。文明圏の住民は自らの領土を拡張するのに、自らは抵抗力を得ている感染症の力をもう一つの武器として無意識に振るっていた。
 文明が感染症保有していても、進入する地域に文明が対応していない感染症保有している場合は、そうでない場合よりもその文明の影響力が拡大して単一的にその文化に染まことは少なく、また文明の範囲の伸張速度は遅い。
 たとえば紀元前1500年以降におけるアーリア人が、広範迅速に地方にまで進入できなかったのは、インドでは、熱帯の小集落で森林生活者が慣れ親しんでいる熱帯病や寄生虫と接することで文明側も損害を被ったという疫学的側面があり、それらの小集落はカーストによる半ば自立した機能を備える構成分子として取り込んだ。ユーラシア大陸北方における単一性が、インド諸文明ではより少ない(多様である)のは、そうした理由がつけられるというのは面白い。
 感染症のため、漢民族が華中華南に定着して、大規模な開発が行われるのは漢王朝以後のことで、黄河の治水事業が本格的に開始されてから揚子江流域でそれと同レベルの開発が行われるまでに約千年に近い歳月を必要とした。政治的・軍事的障害はたいしたことがなく、南のほうが作物の生育期間が長く、旱魃の危険性も少ない、つまり技術的にそれを妨げるものはなかったのだが、寒冷な華北の気候になれた人々がより感染症の多い南で、感染症リスクの高い水田耕作を行うにはそれだけの時間がかかった。病気以外に障害がなくなってから、揚子江への漢民族の移住が既成事実となるまでに5、6世紀かかったが『端的に言えば、寒冷低温の北方からの移住者が次々に死んでしまうので、もっと早い開発が不可能だったのだ。』(P153)
 インドでは濃厚な汚染と感染の重荷(そして気候)が、活力や肉体労働の能力を減殺していたので、豊かに見えるのは宝石や香辛料輸出のおかげで、支配階級と都市が利用できたエネルギーの剰余は乏しく、亜大陸全体としては「いつの時代にも比較的貧しかった」(P160)というのは意外だ。
 西暦の最初の数世紀では、それまでよりも他地域との交流が密になった結果、北方の文明で病気の経験が少なく疫病への抵抗力が弱かった中国や欧州では、新たに入ってきた感染症西アジア・インドでは抵抗力ができていたもの)により、社会体制そのものを破壊されかねない打撃を受けていた。そのときはある意味で、後年のネイティブアメリカンと同様の立場に立っていた。
 日本が中国その他文明世界の疾病パターンにほぼ追いついたのは13世紀ごろで、それまでは疫病によって、世界のもっと人口密度が高く、あまり孤立していない地域に比べて、ずっとひどい被害を受けていた。それらが根付く人口規模に達する以前には、数世代に一度流行するはしかや天然痘のような病によって人口が増大するのを妨げ、ひいては経済的・文化的発展が妨げられていた。英国でも同様で、英国ではヨーロッパで流行した黒死病もあって持続的な人口増は1430年以後のこと。そうした感染症に抵抗力をつけたあとは、日本や英国は隣接する大陸諸国を大きく上回る人口増大ペースにより、ダイナミックな成長を遂げる。
 天然痘とはしかは、はじめてその疫病と接した集団に凄まじい結果をもたらす。