疫病と世界史 下

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)

疫病と世界史 下 (中公文庫 マ 10-2)

内容(「BOOK」データベースより)

かつてヨーロッパを死の恐怖にさらしたペストやコレラの大流行など、歴史の裏に潜んでいた「疫病」に焦点をあて、独自の史観で現代までの歴史を見直す名著。紀元一二〇〇年以降の疫病と世界史。「中国における疫病」を付す。詳細な註、索引付き。


 上巻は最初ちょっと読みにくいと思ったが、慣れてきたからか、感想を一度書いたことでなんとなく理解できたからか、苦労せずに読み進めることができた。それから巻末に索引がついているのは読み返すときに便利そうだからいいね。
 歴史について考えるとき、往々にして無視されがちである要素ではあるが、疫病のような偶然の出来事によって歴史が大きく変わっている、疫病による人口の変動は歴史を動かす大きな要因であることが書かれていて、面白い。
 恒常的な交流が確立した結果、ユーラシア大陸の文明化した共同体は西暦900年ごろに疫学的適応現象は達成され、主な感染症を今まで一度も遭遇したことのない集団はいなくなった。ただし、長い期間をおいて再来することで大きな集団のように小児病化せずに、流行するたび青年層を中心として多くの被害を出すという地域も多く残っていた。日本も13世紀ごろまではそうだった。そして1700年ごろまでは船舶の貿易によって疫病が新しい病気を新しい土地に広げる作業は一段落して、それ以降疫病の発生が人口に及ぼす影響力は低下し始めた。
 ペストは1940年代に抗生物質ができるまでほぼ一定して感染者の6割が死亡する病だった。今までペストがヨーロッパなどで災禍をもたらしてきた疫病だということは知っていたが、感染したら過半数を超える確立で死亡するようなものだとは思っていなかったので、驚く。
 ペストは齧歯類の巣穴で良く繁殖して、年に十マイル、二十マイルの距離を越えて伝播させ、人間が発達した交通によって運ぶこともあるため、伝播の速度を速め、初めてアメリカ・カリフォルニアで齧歯類ペスト菌の感染が確認されてから広まり続け、1975年現在では合衆国西部のほぼ全域とメキシコ、カナダに保菌生物が散在している。
 20世紀初頭中国満州でペストが発生して、それは交通の発達により、いまだかつてなかった地球規模の流行になりかねない事態だったが、なんとか欧米の医師団による調査・研究と衛生上の措置により地球規模の流行にならずに済んだ。
 ヒマラヤ山脈の中心地にあったペスト菌(パストゥーレラ・ペスティス)を13世紀半ばにモンゴル軍がその地域に行き、迅速な軍事行動をした(してしまった結果)、パストゥーレラ・ペスティスを自分たちの故郷の草原に持ち帰ってしまい、そこに住む齧歯類たちがペスト菌の保菌生物となってしまった。そしてそのせいもあり、中国では1200年には1億2300万人いた人口が、1393年には6500万人にまで減ってしまった。これはモンゴル人の残忍さだけではいくらなんでも説明できない、だから疫病(ペスト)によって失われたとする見解には信憑性がある。
 そしてその草原から徐々に、100年近く経ったあとヨーロッパ世界まで進出して、それまで長らく(550年)の間、ペストの災禍を経験していなかった欧州世界の住民に襲い掛かった。
 17世紀まではペストが流行することで、一年で市の人口の半分とか3分の1が死亡するという事態はごく普通のことだったし、健康な人間がそれから24時間も経たないうちにペストを発祥して悲惨な死を遂げるということもざらだった。ヨーロッパではペストが流行して人口が著しく減少したということは知っていたが、具体的で衝撃的な割合を見て、それが普通だと言われると改めて、このペストという疫病の恐ろしさを知り、そしてその時代に生きた人間の死生観はきっと今とはまったくちがうものだったのだろうと思い、そして彼らはその疫病に対してどういったスタンスで向き合い、どういった思いを抱きながら生活していたのかに思いをはせる。
 17世紀半ば以降の北西ヨーロッパでは木材の不足から石造り・煉瓦の家が普通になったことで、齧歯類と人間との接触が少なくなったということもあり、この疫病は北西ヨーロッパから引き上げていった。
 14世紀以降、欧州でハンセン病が減った理由としては2つ考えられる。1つめは、肺結核の流行で、結核菌でよって引き起こされた免疫が、一定の条件下では、ハンセン病の病原菌が引き起こす免疫と重なり、結核のほうが広まりやすいということもあり、結核が欧州に広まってからハンセン病にかかる人間が少なくなったということ。2つめは、中世欧州においてハンセン病と分類されたであろう破格破れたはれものという症状がでて皮膚接触で感染するフランベジアという病気があるが、黒死病で人が多く減ったから、夜寝る際に薪を多く使えるようになり、また気候が寒冷化したことで、体を寄せ合った程度では段を取れなくなり、毛織物供給が増大し、それを身に着けるようになったことでフランベジアの感染が減ったということ。
 そしてフランベジアは梅毒のスピロヘータと同一のものなので、アメリカ由来の病気ではなく、そのように感染者が少なくなったことで生存の危機にさらされたフランベジアが別の症状・感染方法に進化したものなのかもしれないというのは知らなかったので興味深かった。
 14世紀半ば以降のペストの甚大な被害によってカトリック教会の権威が失われた。
 イスラム世界では「汝ら、もし或る国に疫病が存在していると知ったならばそこへ行ってはならぬ。だが、もし疫病が汝らの今の居る国に発生したならば、そこを離れてはならぬ」「疫病で斃れるものは殉教者である」「それはアッラーが、みずから選び給うた者どもに科せられる罰である。だが、アッラーは、信者に対してはわずかばかりの慈悲を垂れ給う」という経外伝承が広まっていたため、キリスト教徒の衛生法を笑い、疫病に対して受動的な傾向にあった。その教えは、疫病を広めないためのものだったり、疫病に斃れた人に救いがあると諭したり、あるいはそれは罰であるが、同時にその罰を受けたものには慈悲があるといったり、それぞれ疫病が流行するなかでは慰めになるような言葉ではあるものの、そのせいで衛生法が発展しない原因にもなったとは、訓示がまわりまわってどういう影響がでるかというのは難しいことだね。
 ペストによって草原が侵されたことにより、モンゴルの軍事力が下がり、モンゴル帝国の衰微がはじまったとする見解は大胆で面白いな。しかし17世紀ごろにはペストにかからないような穴居性齧歯類に対する態度・習俗ができたため、満州から中国を平定して清を建国させたように再度その政治・宗教・軍事的発展力が復活した。
 旧世界と接触する前のアメリカは、メキシコやペルーでは相当程度の市街地の大きさと人口密度があったのだが、感染症を保持できるほど大きな群れを作る家畜・動物が居なかったということもあって、疫病が極めて少ない土地であった(梅毒もアメリカ発祥か怪しい)。そのため、スペインとの接触ではネイティブ・アメリカンばかりが彼らにとって未知の疫病で斃れ、スペイン人は未知の病で倒れることはなかった。
 スペイン人が来る前のアメリカ大陸の総人口は約一億人で、メキシコまたはアンデスの文明圏の人口はそれぞれ2500〜3000万人にも及んだ。しかしそれから120年約5〜6世代で人口が90パーセントも減少して、ネイティブ・アメリカンの人口が底をついたとき彼らは、コロンブス以前におけるアメリカ大陸の人口のわずか4、5%の人口規模になっていた。アメリカで彼らの人口減が食い止められたのは、ネイティブ・アメリカンの学校で種痘が強制的に思考された1907年(!)になってから。
 悪疫を神の怒りの徴という風に考えるのは、ネイティブ・アメリカンもスペイン人たち(に限らず近代以前の人々は)も同じだから、一方は壊滅的な被害を加え、もう一方が一切被害を被らないという自体を目の当たりにして、自分たちの信仰、それまでの権威に頼ることは難しく、また抵抗するために権威や信仰が頼れない、しかも相手は神の恩寵を受けているかのようにこの悪疫でやつらは死なない、そうするともはや反抗するのに何の根拠も持たない状況になってしまったため、スペイン人たちは少人数で彼らを支配することに成功した。それにアメリカでは疫病が旧世界の人間が来るまでろくに存在しなかったということも、よりいっそう彼らに疫病が神の怒りの具象に見えたことだろう。
 宿主が疫病に対して抵抗力を得るのと同時に、寄生生物はあまりに早く宿主を殺してしまう型は淘汰され、比較的穏やかに発症する型が生き残り、初めの頃は破壊的な力を持っていた病は徐々にその威力を逓減させていく。
 疫病が再発する間隔が短くなると、年長者は流行を何度も経験して強い免疫を持つ。なので病気に犯されることが多い共同体の場合のほうが、疫病による損害を受けにくい。なぜなら、そうした流行によって子供が死亡しても、内部にそうした病が保持されずにたまにくる疫病がくる小さな共同体の場合はその疫病による被害が多くなり、特に若者が多く死亡することになるため、たまの流行で大人、特に若者が大勢死亡することになる。それに比べたら亡くなった子供の変わりに、新たに子供を生んで育てるほうが費用がかからないため、共同体として疫病の影響を受けづらい。疫病が完全に根付いて人間に耐性が付き、また病気も徐々に威力が減じてきて、小児病化すれば人口へ与える疫病の影響力が弱まる。
 ヨーロッパでアメリカ原産のイモ類とトウモロコシが重要な作物になるよりも早く、中国でそれらが栽培され普及していたというのは意外な事実だ。
 医学と医療機関が人類の平均寿命と人口増に大きな変化をもたらすのは1850年代以降とわりと最近のこと。
 人痘種痘はトルコからヨーロッパに伝えられたが、それはトルコに限ったものではなく、アラビア、北アフリカペルシャ、インドなど民衆レベルでは既に良く知られ、実行されていた。それに中国では、ウィルスをしみこませた綿切れを鼻腔内に挿入する中国式の方法があり、それは11世紀にインドとの国境地帯から来た賢人により伝えられたものとされている。そのように人痘種痘は非常に広域にわたって昔から実行されてきたものであったようだ。
 コレラはもともとはインドの風土病だったのか。その拡散にイギリス軍の軍事運動の他にも、ヒンズー教の巡礼、後にイスラム教の巡礼が関わっていたというのはちょっと不思議な偶然だね。
 最終章の六章は、近代の保健衛生による感染症の激減などが書かれる。欧米では1900年以降、アジアでは1945年以降、保健衛生の発達によって疫病的な病気が力を失って人口のマイナス要因とならなくなった結果、現在の人口の爆発という現象になっている。
 また保健衛生によって清潔になった一方で、衛生の良い階層では、以前にはかかっても目立った症状が起こらなかった小児麻痺が、子供時代にかからず大人になってからかかるために威力を増すという事態も起こっている。