太平記 ビギナーズ・クラシックス

内容(「BOOK」データベースより)

平家物語』と並ぶ軍記物語の傑作。後醍醐天皇の即位から、討幕計画、鎌倉幕府の滅亡、天皇親政による建武中興と崩壊、足利幕府の成立と朝廷の南北分裂、足利家の内紛を経て、細川頼之管領就任までの、約50年間にわたる史上かつてない動乱の時代を描く。強烈な個性の後醍醐天皇をはじめ、大義名分のもとに翻弄される新田・足利・楠木など、多くの人たちの壮絶な人間群像と南北朝という時代をダイジェストで紹介。

 「太平記」は以前から興味はあったが、ようやく読むことができた。それと「やる夫 梅松論」という面白い物語で少しだけだが、当時の重要人物たちがどういう人だったのか、そして当時のパワーバランスがどうなっていたのかということを幾分か知ることができたのもこの本を実際に手に取るきっかけとなったかな。
 基本的に細かな描写をはしょって各章段の筋が書かれて(たぶん章段がまるまる抜かれているというのはない、と思う。)、編訳者がピックアップした各巻1、2個のシーンについては現代語訳と原文を併置している。そうしたビギナーズクラシックスのいつもの形式だが、原文が置いてあるのは有名なシーンであると思うのだが(「太平記」を良く知らないけど)、私でも知っている有名な楠木兄弟の自刃のシーンが原文・現代語訳がついていないのはちょっと不思議に思う。そのシーンが2章段にわたるから、連続で現代語訳・原文を置くのを嫌ったのかしら?
 太平記は40巻の物語だが、物語半ばにして楠木(16巻)・後醍醐天皇(21巻)は退場する。しかしそれ以降悪霊・大魔王として再登場する。ただし、解説の人によると「正成は智将としての才覚に富み、天皇は帝王の威厳に満ちて、ともに生前の凛たる面影を失わない。この世に祟る怨霊というよりも、太平をもたらす予祝の神霊とするほうがふさわしい」ようだ。しかしそれまではそうした霊とかの話はないのに、彼らが退場してから、彼らがそうした形で再登場しているからなんかちょっと浮いているように感じてしまうな。
 しかし児島高徳は他のところではろくに名前を見ない人だけど、「太平記」ではやたらと名前が出てきて、流石彼が太平記の作者だとする(小島法師児島高徳)説のある人だとは知っていたが、思っていたよりもその名前がでてくることがネームバリューのわりにかなり多くて、それはそうした説が唱えられるわと思えてちょっと笑えてくる。wikiみたら一時期は国民的英雄の一人となっていたみたいだから、自分のことを主張できる物書きって強いなあと改めて思う。
 巻末に略年表があり、それを見れば、この巻の出来事が何年ごろの出来事で、どの巻がいつくらいの年代を扱っているのかがわかるのでありがたいな。
 楠木正成が、聖徳太子の「未来記」(預言書)に後醍醐天皇隠岐から戻り再び帝位を付くという予言が書かれてあるのを見るという場面は、オカルトじみていて歴史の本だと考えるとなんかこういうエピソードないほうがいいかなと思えるが、物語として考えるとちょっとなんか妄想力が書きたてられる面白い場面だとも思える。
 六波羅探題の北条の武士たちは関東で体勢を立て直そうと、光厳天皇、後伏見・花園両上皇と共に関東に下ろうとするも、多勢に待ち伏せされ、勝ち目なく上皇を守護する武士たち432人全員が切腹したというのは壮絶すぎて、思わず絶句する。周囲が数百人の自決者の骸のなかにわずか数人でぽつねんと現世に置き去りにされた天皇上皇らの気持ちはいかようなものだったのか想像が付かないな。
 鎌倉の北条氏族滅のシーンは、やはり壮絶だなあ。ここまで劇的にそれまでの支配者一族が一日にして滅びるというのは、日本史には稀だし、一番大規模なものだと思う。
 しかし鎌倉幕府倒幕までが巻十一で終わるかあ。
 大塔宮の存在感は想像していたよりも薄いなあ。討幕運動中は楠木と行動を共にしていたようで、軍事的な場面は楠木にスポットが当たるから彼の存在があまり見えないということかな。そう思っていたけれども大塔宮の非業の死のシーンは、現代語訳のある章段で、そこでの迫力がすごくて、彼の執念を感じるし、他のすぐに切腹してあっさりと死に果ててしまう武士たちと比べると、希少性ということもあるのだろうが、彼のように最後まで自分の生きあがいて、きっと牢屋から出たら直ちに活動を再開しただろうというエネルギッシュな感じはなんだか素敵に感じる。
 滅亡した北条氏得宗家のトップとして中先代の乱を起こしたり、南北朝時代には南朝と結びついたりした北条時行は前々から興味があるのだけど、彼について書いた本とかあれば読みたいと思っているのだけど、ちょっと見当たらないのが残念だと常々思っている。
 巻二十一が徒然草兼好法師が出てきて、高師直の恋文の代筆をしていて驚いた。
 新田義貞が死んだ後も彼の弟の脇屋義助も北陸で活躍していたようなのは、足利だけでなく新田もまた兄弟で武将として活躍していたとは思っていなかったので、少しびっくりした
 巻二十六の楠木正行兄弟の死の場面で、鎧を一日中着けて駆け巡っていたら、汗や体温で締め付けが弱まり、隙間だらけになっていたという文章を読むと、防具としてどうなんだろうと思えてしまうわ。比較しているのが西洋の鎧なのがいけないのかなあ。まあ、原文だと「一日著暖たる物具なれば、中たると当る矢、箆深(のぶか)に立ぬは無かりけり。」だから、実際は隙間だらけというのは違うのかもしれないけど。わかりやすいように(おせっかいに)「隙間だらけ」と書いたのか、それともこういう文章にはそういう含意が当然に含まれているのか、私にはわからない。なぜなら古文さっぱりわからないから。
 足利家、兄弟で戦って和解するということを2度あるというのは数奇な運命だなあ。両者の陣営に兄弟が別れるというのは武士ではよくあることかもしれないけど、彼らはそれぞれトップとして戦うというのだからな。
 足利尊氏、まだまだ戦いが一段落したという段階でもないときに没してしまったというのは、彼の死後も南北朝が続いていることから知ってはいたけど、こうして物語として戦乱が続いているなかで不意に彼の死が訪れると、将軍・幕府という安定した国内で武士たちを配下に治めてデンと構えて安泰といったイメージからはほど遠い最後まで戦乱の中を生きた人なのだと改めて実感する。まあ、将軍とは戦場の中を駆け巡るのが本来的な意味としては正しいのだろうけど。
 鎌倉幕府の倒幕した主要な人物たちは皆退場して、南北朝合一前に、一時の平穏の中で「太平記」の物語は幕を閉じる。
 今までは太平記というのは南朝側の本というイメージをなんとなく持っていたが(今川家の人が「難太平記」なんてものを書いているせいかな)、一応足利直義の検閲も受けているのだから、北朝側が結構関与してできたものなのね。