アフガニスタンの診療所から

アフガニスタンの診療所から (ちくま文庫)

アフガニスタンの診療所から (ちくま文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

幾度も戦乱の地となり、貧困、内乱、難民、人口・環境問題、宗教対立等に悩むアフガニスタンパキスタンで、ハンセン病治療に全力を尽くす中村医師。氏と支援団体による現地に根ざした実践から、真の国際協力のあり方が見えてくる。

 タイトルからは医療が不足している現場で医療に従事した際の話がメインと思ったが、アフガニスタンの現状についての説明が結構多く書かれており、また善意ではあるがが独りよがりの援助とならない本当の意味での国際協力とは「何かしてあげる」のではなく、現地の事情を考慮して、その地の人と協力して「ともに生きる」、ともに作り上げるものだというような国際協力の心得みたいなものにもしばしば言及しているため、実際の医療の話というのはそれほど多くないので、読む前に予想していたものとは結構ちがうかな。
 また、この話は単行本が出たのが1993年なのでアメリカが戦争をする前の話だが、ソ連の侵攻、撤収後のソ米両国が武器援助を続けた時代、それが終結した直後の話なので、かなりアフガニスタンの情勢が荒れているなかで活動が書かれている。また、タイトルは「アフガニスタンの診療所から」とあるのだが、実際に軸足を置いている場所や、この本で書かれている期間中に著者が活動していた場所の大半はパキスタンペシャワール。ただ、著者が活動したペシャワールの病院も、パキスタンに新たに作った診療所もパシュトゥン諸部族居住地内のようなので、その内部の話。
 冒頭が1992年にアフガニスタン難民が続々と明るい表情で帰郷している姿が書かれているが、後にアメリカによって再度国土が戦火にさらされることを思うとちょっと胸が痛くなる。
 まず最初著者は、現地ではやりたくともできない、ニーズはあるが力が注がれていない(他の安価でもっと大きな効果のある場所に予算を回して、そこまで予算が回っていない)らい病棟で活動することになる。自分が貢献を実感できる場所とかではなく、また勝手な活躍で地元のバランスを崩すようなことは有効な協力にならないという姿勢は、言われてみれば確かにそのとおりと思えるから、そうしたスタンスは好感が持てる。
 著者がこの本を執筆した当時はらいは治ると宣言されて40年以上経っていたのに、20年の患者数の推移を見ると、大きな減少が見受けられないという状況だった(まあ、人口は増えているから「比率」は下がっているのだろうけど)のね、現在がどうなんだかは知らないが。
 当局の「地元に人々の手になる組織的プログラムと、外国人の見世物のような自慈善事業の廃止」という方針が打ち出されたが、それまではほどこし気分が残る外国人の慈善事業は、患者も親切で気前の良い外国人グループのほうを頼りにしたが、そうやってちやほやされるため地元権力と対等にものをいえるような錯覚に陥りがちだった。著者も当局の方針、自分たちの国で医療をまかなえるようにすること賛成だった。また援助に来ているのにビザが必要とされることや支援物資に関税をかけることに文句を言う安易なボランティアなどには著者は、日本の災害で支援物資だから自由に入れさせろ・ボランティアだから自由に入れさせろといわれたらどう思うだろうかと書き、苦言を呈している。
 当地での暗黙の了解をしっかりと理解して、そうしたやりとりが身についてきて、誰もよそ者の外国人だとは思わなくなってしまって不利なこともおきるので、現地に溶け込むほど洋服を着て外国人らしく見せなければならなかったという話はちょっとクスリとくるね。
 パシュトゥン人社会はいまだ仇討ちの掟が廃されていない段階の社会であるので、そうした仇討ち事件が多く残り、理不尽に夫を殺された妻が身内に男手が居ない、相手が有力者で太刀打ちできない場合、わが子に復習を託して育て、銃の操作ができるようになるとめでたく本懐を遂げるというようなことが実際に著者の滞在中にあって、そうした出来事はペシャワールでは非難されるどころか賞賛されたというのを見ると、本当に現代だけど近代以前の価値観を生きている人々なのだな、そういう人が現代にもいるのだなと感じて、驚きそして少し賛美するような気持ちを抱く。
 著者が当時所属していた海外医療協力団体が「重要」会議のため、出席することを要請してきたが、その会議についての美しく白々しい文句と催し物と議論ばかりで中身のないこの団体に嫌気がさして、自棄になってクリスマスに街で一番上等なケーキを買い込み、患者全員に配ったが、それをもったいないといったスタッフに「おれの道楽だ」と行ったシーンはいいな。そしてその日は久しぶりに笑顔が病棟にあふれていたということには、心が温もる。
 著者が新たに診療所を作り上げようとするが、小さな規模でも何とか現地で、その国の人たちを中心に継続できる形を作り上げようと模索しているのはいいね。
 自分の村を離れることを嫌がるような人たちを何とか説得して訓練を施したほうが、そして英語を学習させるよりも当地の言葉で学習させたほうが長続きするというのはなるほど。
 1989年ごろ和平の機運が高まって難民がもうすぐ帰れるかのように演出されたが、世界の慈善業者がアフガンに集まってきて実績作りのために、金にものを言わせた支援をはじめたが、実態としてはまだ受け入れ態勢が整っていなかったのに気宇壮大で即座にこの問題が解決するような青写真を開陳して、現地の人々を国連不審に陥れた。そうして華々しい言葉だけが先行して、慈善業者が上から目線で現地の風習・文化を批判し、あげつらうことも多かったときに、「悪魔の詩」の出版という事件があって、それを契機に一気に反発、欧米の「文化侵略」に対する反動が起こり、外国人への襲撃も増えた。
 そして湾岸戦争勃発後は、ペシャワールから忽然と彼らの姿は消えた、まだ難民の問題は何も解決されていないのに。そんな難民診療所が多く閉鎖されるなかで、続けていた著者たちがつくった団体の診療所には病人が押しかけ多忙を極めていた。
 アフガニスタンに診療所を作るときに、補給が難しい情勢となってしまったため生みの苦しみがあったようだ。しかし根気強い等距離外交で、何とか対立する政治党派が自ら不干渉と協力を表明して、その地の人にもよそ者への警戒がなくなってきたため、しばらく続けると楽観的な見通しとなって思いのほか早く成果があがった。