フランス史10講

フランス史10講 (岩波新書)

フランス史10講 (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)

フランク王国百年戦争絶対王政フランス革命、一九世紀の革命、二つの世界大戦、「五月革命」など二千年余の激動の歩みを一冊でたどる。教会と国家、中間団体、名望家国家、政治文化など重要なテーマも掘り下げながら、「ヨーロッパ地域世界の中のフランス」という視点を軸に、フランス史の独自性を描き出す斬新な通史。

 この岩波新書の10講シリーズ(?)は気になっていたので、ドイツ史、フランス史、イギリス史を一挙に購入して、順番どおりに詠もうと思って以前「ドイツ史10講」を読んだのでそれに続いて――というほど連続でもないが(苦笑)――この本を読了。
 この本では古代とか中世の分量は少なく、近世以後に多くページ数を割いている。そして近代フランスは体制が良く変わるが、体制の変化がどのようにして起こったのか、そしてそれらの時の社会の構造などについてを重視して書かれている。
 ローマ帝国、防衛を効果的にするために東西ローマに二分したというのは知らなかった。ローマ帝国末期の状況について無知なので、どうして東西と別れたのかわからなかったが、なんとなくどちらかが反乱して分裂したのかと思っていたので防衛のため国を二分したとはちょっと意外だったし、自ら国を二分するということが中世領主の相続、この本にも出ているフランク帝国の相続で分裂みたいに分割されるならともかく、いかに国が危ない状態とはいえ二つに分断するような大胆な改革がなされていたとは、そんなことがなされることがあるとは驚きだ。まあ、わかりやすく完結に説明するためにそんな説明しただけで他にも色々な事情があるのかもしれないけど。とにもかくにも、そんな話を聞いてローマ末期の話に興味が湧いたのでその時代を扱った歴史の本があったら読みたくなってきた。
 ローマ教会は四世紀末教会内の教義論争で三位一体説を国教にしたが、ローマ化の早かったブル群と王や西ゴート王はキリスト教化も早く、異端のアリウス派だった。そのためローマ教会は異教徒だったフランク王クロヴィスを改宗させて三位一体説をとるゲルマン諸部族の王で唯一のカトリックの王とした。キリスト教化の早かった地域は他の、異端の教派となったから、一時フランク帝国の領土=カトリック圏となっていたのか。どこかで一時フランク帝国の領土=カトリック圏みたいな記述を以前見たときに驚きと同時に、ローマ帝国時代にキリスト教は国境となっていたはずなのに、どうしてそんなことになっているのと困惑した記憶があるが、そうした理由があったのね。
 西フランク王は、ヴァイキングの来襲して荒らしまわったので、キリスト教への改宗と後続の侵入者に対しての防衛力になることを条件に彼らのセーヌ河口への定住を認め、これがノルマンディ公領のはじまるというのはなるほどなあ。ノルマンディって名前は目にすること結構あるし、ヴァイキングとなにやら関係があるようだということは知っていたが、他はさっぱりわからなかっていなかったが、こういう経緯があってできた領地なのね。
 クロヴィスの洗礼について9世紀に伝説が付け加えられた結果、クロヴィスの洗礼は「聖別」となり、聖別されること・戴冠することは神によってなされることとなり、西フランク王だけが真の「聖別」を受けることができることとなり、キリスト教の王の正当性をときにはローマ教皇相手にも主張できる存在となった。
 西フランク(後のフランス)では9世紀末に王位の世襲制を廃止して、選挙制度にしていたというのは知らなかった。てっきりそういうのはドイツだけかと思っていたが、フランスでもかつてはそうだったのか。中世中期はじめにはドイツとほぼ同条件であった(どころか、その時点では王権は「むしろドイツのほうが強力だった」)のだが、カペー朝の歴代の当主が比較的長命で、男子に恵まれ、本拠地が経済的に豊かで法律家(知識人)を登用でき、テクノクラートとして使えたなどのさまざまな理由が重なって、王権を大きく拡大することに成功して、14世紀はじめには親王領含めて王国の3/4を支配下に置くまでになった。
 領主と領主との間、領主と農民との間に直接的な<支配=従属>関係があるとき、前者の関係が狭義の「封建制」で、後者を含めた階層的な社会政治構造を指すのが広義の「封建制」(封建社会)である。近世に入ると封建制は存在せず、フランス革命で妥当された封建制は領主制のこと。
 フランスでは12世紀はじめに、それまで領主が持っていた司祭の叙任権を、教会が持つことになり、そのことで聖職者の知的・道徳的資質が向上した。その結果13世紀に洗礼・結婚・巡礼など教区を単位とする日常的な民衆生活の規律的枠組みが固まり、真の意味での社会のキリスト教化がはじまった。真の意味で社会の隅々にまでキリスト教が普及した、日常に密着したものになったのは結構遅いということかな。
 フランス、プロテスタントユグノー)とカトリックの対立が内戦となり30年も争いが続いたというのは長いなあ。この時代のことを良く知らないが、王族の結婚式に来たプロテスタント貴族の虐殺とかなかなかインパクトの強いエピソードもあり、ちょっとこの時代についての興味が湧いてきたな。しかしさらっと出てきているけど、「ナヴァール王」とはなんぞや、フランスの内部にある称号らしいが、なんで「王」と名乗っているのか、その由来が知りたい。
 法服貴族、今まで単に文官という意味だと思っていたけど、高等裁判院評定官のようないくつかの官職の保有者には貴族の資格を与えるから、官職を買ってそうした資格を得たものを法服貴族と呼ぶのか。しかし官職を買うといっても、一代でそこまで行ける人はおらず代々徐々に上の官職に買い換えていってそこまで上り詰めていくという類のもののようだが。そうやって新興ブルジョワ層が何代もかけて貴族に上り詰めていったら、鉱山経営・海上通商などの例外を除き貴族は商売をすることが許されないため、商売をやめるということになるのか。
 そのように貴族への上昇ルートは閉ざされていなかったので本質的に貴族とブルジョワが敵対関係にあったわけではない。しかし18世紀後半に新しいブルジョワの数が増えると官職を上りつめる速度が低下したため、彼らの間に不満が芽生え始めていた。
 フランスに革命が起こる直接的な原因ともなったフランスの財政難で、聖職者・貴族への課税をはねつけたのは法服貴族(つまり旧ブルジョワの人たち)で構成される高等法院であったというのは、今までなんとなくもっと昔からの貴族の人らがはねつけたのだと思っていたのでちと意外。
 革命前夜でのフランス財政難での対立は、課税の「平等」を主張する王側と、政治的「自由」を主張し王の「専制」を否定する貴族側という状況だった。
 『特権的中間団体の王権への抵抗、経済発展を背景にもつブルジョワ層の上昇、民衆騒擾』(P123)これらは一八世紀後半の西ヨーロッパ諸国に多かれ少なかれ共通するが、フランスに固有なところは絶対王政で『特権貴族の抵抗が王権を機能麻痺させるまでに頑強』で、それを打開するために理論的に先鋭化した変革主体(議員・言論人など)が出現するが、しかし彼らが行使するには民衆運動が盛り上がり彼らに協力してくれることが必要で、それがあってはじめて理論を実行する力を得る。その力によって革命を起こしたが、彼らは民衆運動に対する制御能力が欠けていて、革命を起こされた王政に抵抗した旧体制の支配層は国外と接触をもつようになり反革命となるというのが、1789年までの情勢。
 しかしロベスピエールが独裁・恐怖政治をしていた時代、フランスは戦争の真っ只中で、彼が失脚して処刑されたときでもまだ戦争が続いていたというのは知らなかった。
 どうやって第二帝政に移行したかという流れが、簡潔に書かれているのはありがたい。フランスは政治体制が結構近代になってころころと移行する土地だから、そうした政治体制移行の流れが書かれているのはいいね。今後わかんなくなったときには、これを読めばいいなという安心感が持てる。