聖なる木の下へ アメリカインディアンの魂を求めて

 副題の印象から読む前は彼らの世界観や信仰についての解説書だと思っていたが、比較文明学者である著者が現代の彼らの生活や信仰を、白人世界の拡大、先住民の自由の喪失に最後まで抗い、そして伝統的な儀式を良く保存しているラコタ〔スー〕族が暮らすインディアン・リザベーション(保留地)に滞在しながら取材して、そこでの体験やそこで見て取ったものを主にして彼らの信仰について書いている。無論歴史的な話もちょこちょこはさみこんで説明しているが。
 しかしフィールドワークをしているということで、最初に文化人類学が頭に浮かんだが、amazonの内容紹介を見ると比較人類学者だということだったったが、比較文明学というものは文化人類学のようなものとどう違うのか、あるいは違いはないのかが良く分からないなあ。
 「プロローグ」サンダンスの描写から始まるが、その儀式はダンサーが両胸に二本の木串を通して聖なる木に革ひもを結び、それを自ら身体を木から離して引きちぎるというものでそのときには肉片が飛ぶというその描写を読んでいるだけでもゾワっとくるぐらい痛そう。
 メディスンマン、癒しをもたらす者であり、伝統の儀式を執り行う人であり、カウンセラーの役割も担う。メディスンマンは血筋で決まったり、なりたくてなるものでも修行してなるものではなく、ビジョンを得ることによって選ばれるもの。そしてビジョンで選ばれたら、それに相応しい生活をし、それに伴うラコタ社会に対する責任を果たさなければいけない。更にメディスンマンは癒しに対価をとらず、普段の職業は病院の用務員という人もいる。メディスンマンが対価を取らない理由としてはワカンタンカ(グレート・スピリット)の声を伝える媒介者であり本来地位や権力を持つものではなく、ワカンタンカから与えられた個性の違う力はすべてが調和のうちに強制するために使われるべきもので、自分のためだけに使うことを嫌うという思想がラコタの人々にはあるからである。
 現代の先住民保留地では失業率も貧困率、そして自殺率も高く、アルコール依存症の人も多く、いまだに厳しい状況におかれているようだ。
 著者がラコタ族の保留地に滞在した際のエピソードが多く登場するので、読みやすくていいね。
 ラコタの人々は、教師だからこうすべき親だからこうすべきと人を型にはめる発想が希薄で、メディスンマンであっても聖者のような行いを求めず、メディスンマンが普通の人と同じようなふるまい(悪態をついたり、置いてもうろくしたりしても)をしてもそれとメディスンマンとしての力量を関連付けたりしない。
 州議会議員であっても、職能として政治家を他の部族民の変わりに務めているだけで、その能力を発揮するのは彼の部族民に対する責任でもあるから、誰も媚びたりおもねったりする人がいないというのはいいな。そうした職業による上下みたいな悪しき感覚を現代のアメリカにあってなお所持することを拒んでいるそうした精神を部族全体が保っているというのは奇跡的で尊いことのように思える。
 ラコタでは自分の大切にしているものをいかに潔く手放し、気持ちよく差し出すことができるかでその人の評価が決まる。
 『ビーフジャーキーとして一般的になった彼らの干し肉』(P158)アメリカ先住民(ラコタ?)の保存方法なんだジャーキーって、今までてっきりヨーロッパのものだと思っていたのでちょっと意外。
 常に人の反対の行いをするトリックスターであるヘヨカもメディスンマンと同じくビジョンによって選ばれ、現在では年季奉公のように一定期間だけということもあるようだが、それはかつては一生そうしなければいけなかったようだ。