知的複眼思考法

内容(「BOOK」データベースより)

常識にとらわれた単眼思考を行っていては、いつまでたっても「自分の頭で考える」ことはできない。自分自身の視点からものごとを多角的に捉えて考え抜く―それが知的複眼思考法だ。情報を正確に読みとる力。ものごとの筋道を追う力。受け取った情報をもとに自分の論理をきちんと組み立てられる力。こうした基本的な考える力を基礎にしてこそ、自分の頭で考えていくことができる。全国3万人の大学生が選んだ日本のベストティーチャーによる思考法の真髄。

 有名な本でいい本だとは知っていたが、こういう本はあまり読まないし、読んだとしてもたぶん面倒で実践しないだろうから長らく(4年くらい)積んでいたが、一念発起してようやく読み終える。
 同じ物事が別視点で見ると見え方が違うことや複数の視点を持つことの大切さみたいなことは常識的であるが、マジックワードのようにそう聞けばそれは当然そうだろうと思っても、実際それが具体的にどういうものか、どうしたらそうした与えられた視点、常識的な視点を超えて、物事の深いところまで見抜けるようになるかについてほとんど知らなかったということにこの本を読んで改めて気づかされた。
 何にでも正解があると、無意識的に感じてしまい請求に答えを求める正解信仰の裏返しが、勉強不足症候群とでも呼べるもので、それはわからないところがあると勉強不足・知識不足なのでわからないと思うことで、そういう具合に思ってしまうのは正解がどこかにあると思っているからというのは今までそんなこと考えたことなかったが、そういわれてみればなるほどなと納得できる。そしてそうした正解があると無意識で考えてしまうことが、物事に多様な側面があることを失念させるもので、複眼思考とは対極的なもの。
 近頃の若者は本を読まなくなったという指摘は言い古された「常識」となっているが、そこでそうですねと納得せずに、本を読まなくなったことでどんな悪いことがあり、何が失われるのかという点までなんとなくではなく、具体的に考えなければならないというのは、なるほど。こんなありふれた指摘についてでも、失われるものについて(あるいは失われるとそういっている人が感じている事項について)具体的に述べられるかというと言葉につまってしまうから、ただ言葉を耳から聴いて、あるいは目から見ることがこうした「常識」については回数が多いからなんとなく知った気になっていたが、実際にはそうした指摘があることを知っているだけで具体的にどういった点から問題にしているかというのをいまいち理解していなかったことが、こうしたありがちな指摘について少しだけつっこんで話されるだけで自分でもわかるのでちょっと反省する。複眼思考を身につけられたらいいのだけど、そういうのを自分のものにするのは手間だということは分かっているから、いまいち本格的にアレをやろう、あるいはコレをやろうと何か目標を見つけて勉強する気になれない、あるいはしようと思ってもきっと3日坊主に終わると確信してしまえる自分の不精さには思わず自ら苦笑いを浮かべてしまう。
 ちなみに著者が本を読まなければ得られないと思っていることは、文章を行ったり来たりできて、立ち止まってじっくり考えられるからだということだが、私はそうした読み方をあまりしないので、本は一応読んでいるけど、本でなければ得られないことを全く得ていないのだから本を読まない人と変わりないということだろうな(苦笑)。
 P84-6に「著者と積極的にかかわりながら読書するコツ」として、十数個のフレーズを例としてあげて、こうしたフレーズを書き込みながら本を読んでみるといいと推奨しているが、そこであげられている文章に対するつっこみ、疑問のフレーズの列挙はちょっと便利そうだから、1冊丸々そうしたものを使って読むことはないだろう(そうしたフレーズを元に更に色々調べたり、考えたりするのが面倒で)が、今後もしばしばこれを見るために本を再度開きそうだ。他にもP92-3の批判的読書のコツも実際にそういう読みを実践しようとするなら、気をつけておくべきことが列挙された有用な表だろう。しかしそれを習得しようとする強い意欲も今のところないので、なんか一杯そういうしなければならないことがあるのは実際にやるのには注意すべきことやり方の例が載っていて、そういうことが細かく記されているほうがいいのだろうけど、その反面でそうしたやり方が細かく載っているほど覚えなければならないことが多いし、大変そうだと感じて実際にやってみるにはハードルが高く感じてしまう。
 1箇所だが途中で実際にこういうお題で文章を書いてみようという部分があって、やるのも面倒だし、なにより電車移動中だったのでやらなかったが、こういう読んでいて書かせたり、ポイントの列挙があったりするので教科書のようだ。それに実際そうした思考を実現するための教科書的な側面もこの本にはあると思うわ。
 著者が前提としていること、暗黙のうちに伝えようとしていることを探って、それを疑ってみることが批判的読書には必要だと述べているが、文章をよく読んでその前提を導くというのはこういうのすごく苦手なので、そうした能力を必要としているという時点で批判的読書はできないなと早々にあきらめてしまう。
 2章では、文章が具体的にどうつながっているかについて見て、実際の学生の文章を使ってどこが悪いかなんかを説明しているのは面白いけど、半面で文章がど下手でちゃんと考えて文章を書けないとわりきって適当に駄文を書き連ねている私としては、そうして文章をあれこれ言われているのを見るのは胸が苦しい。
 擬似相関、本来の原因・理由と違うのだが、それが原因と思い、その要素が結果と相関関係にあると思ってしまうこと。偏見あるいは提示されたデータに安易に飛びついて意図せずそうした誤りをおかすことがある。
 ある集団について一般的に大づかみにくくってしまうことも、逆に個別の事情にこだわりすぎる(「そうかもしれないけど個々のケースによって違う」)ことも思考停止につながる。
 実体論・関係論、やる気を実体論的に捉えてしまうとその人、個人的な欠陥であるという結論が簡単に引き出される。しかし関係論的に捉えなおすと、人と対象との関係の問題となり、あることでやる気のない人が別のことでやる気を持てる(趣味なり、別の上司の下でならということ)のだから、やる気を決定するのは外的な要因(周りの環境、関係)であることがわかる。やる気など身近な例をあげて説明されているのはわかりやすくていいな。しかしこういう区分けの仕方をはじめて知ったが、今までなんとなくそうしたものを不快に感じていたがそれらを呼びあらわす言葉がなかったが、ようやく個人的に実体論的なもの(自己責任論的なもの)が大嫌いだと不快に感じていた対象が言葉によってまとめられたことですっきり。
 「貨幣」は人々の関係性での信用などから価値が生まれる、関係論で見たほうが現実的なとらえかたができるものだから、いくら実体視されるようになっているからといっても貧富の格差、金銭欲は「貨幣」があるから悪いんだと思っても、実体論的な捉え方で貨幣をなくせば問題はすべて解決すると思う人はいないが、貨幣と同じく実体視されている「偏差値」については偏差値をなくせばすべては解決すると思ってしまう人がいる。本来便宜のために生まれたものなのに、実態視されることでそれ自体が問題だと思ってしまう。熾烈な受験が問題なのに、受験のための便宜的指標である「偏差値」が問題と問題を見誤ってしまう。
 そうした実体化したマジックワードを使うとなんとなくわかった気になってしまうので、そうしたワードを別の言葉に言い換えて、何が見えなくなっているのかを知るのも重要。
 良く聞く「常識」的な指摘・言葉を例にあげて、どう思考を深化させればいいか、違う方向からその問題を見るとどうなるかについて説明されているから、それを見ると物事にはそれぞれの立場で見方が、善悪が全く異なることもあるというのも「常識」だけど、そうした言葉を知っていても実際には複眼的なものの見方が全くできていなかったことが良く理解できた。
 「いじめ」という表現によって、その行為の「悪」のイメージが薄れるという指摘はその通りだと思うが、結構有名な本で20年前にこんなことが書かれているのに、便利だからなのか加害者に甘い人権派()が多いのかいまだに使われているのにはため息が漏れる。まあ、そうした表現がだめという指摘はたまに聞くので、まだましともいえるが。
 出身階層による教育の差がアメリカなど諸外国と同等かそれ以上だという指摘がなされているのを見て、20年前(あるいはそれ以前から)からそうしたデータが明らかになっているのに未だにそうした事実が周知されておらず、その事実から目をそらしている人間が多いように思うのは、なんでかなあ。最近漸く、なのか私がそうしたものに眼が行くようになったのが最近なのかしばらくテレビや新聞を見ていないから分からないが、子供の貧困が問題となっているようだが。
 巻末のブックガイドもちょっといいね。だけど「パパラギ」は以前からちょっと読みたいと思っていた本だが、この本を読んでそれにしたがって読んでいると思われるのもなんか嫌、というよりこの本で書かれていることをぜんぜん実践していないのに、薦められる本を読むのはなんだか気がとがめるからしばらく読まないかもしれないな。