北一輝

北一輝 (ちくま学芸文庫)

北一輝 (ちくま学芸文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

二十三歳で、明治天皇制国家の本質を暴き、鋭く批判した大著『国体論及び純正社会主義』を発表して識者を震撼させた北一輝。のち『日本改造法案大綱』を著して、二・二六事件を引き起こす青年将校運動の黒幕と目され刑死する。以来、北に対する評価は毀誉褒貶あい半ばする。はたして、北一輝とは何者なのか。本書は、多くの北一輝論とは違い、「日本コミューン主義者」として第二維新革命のテーマにもっとも近代的、かつもっともよくできた解を提出した思想家ととらえ、この近代日本最大の政治思想家の真実像を描いた、夙に名著の誉れ高い労作。第33回毎日出版文化賞受賞作品。

 北一輝、個人的にはなんか今まで天皇社会主義をとった革命的左派で浪漫主義者というイメージだったが、実際は天皇制否定的(そして天皇社会主義に対する最高の批判者)で非常に論理的な国家社会主義者で、本質は陰謀家と大分イメージ違ったな。彼の思想が完成した23歳の著作「国体論及び純正社会主義」の内容、つまり彼の思想の解説が多いけど、引用は少なめで彼の思想を理解しやすく噛み砕いて説明してくれていて(この作者さんはそうした能力に非常に長けている)、とても面白かった。
 自分の安易な常識、思い込みで北を卑小に見る研究が多かったようだ、この当時(今のことは知らないが)。しかし先行研究の誤っている点を数多く指摘して、ばったばったと切り伏せ、しっかりと証拠付けて批判しているのは格好良いな。少なくとも私はそれらの批判に納得できた。しかしそうやって批判しつつ、テキストを精査に読み、彼の思想をわかりやすく紹介していてうれしいわ。
 20歳のころ佐渡紙で文章を発表していた。自由民権主義は堕落したが、それを人格品性の問題にせず、それは議会開設という目的が達成されたから堕落したのであり、『必要なのは政治道徳ではなくて、新たな闘争目標』であると喝破。
 20のころに書かれた彼の5つの政治論文。3年後の「国家論及び純正社会主義」と見事に整合している。『しかも、これらは明治期に書かれた政治論文として、みな一級の水準をもっている。おそるべき早熟というだけではない。この青年の思想家としての特質が、論理の穿貫性、抽象の徹底性にあることを、この五つの論文は鮮明に示している』(P60)。
 その論文の一つである『政界廓清策と普通選挙藩閥が堕落したのはその主義である王政復古を成し遂げたから、政党が堕落したのは参政権と言う目的を達成したからであり、すでに歴史的使命を終えたもので、政党は革命の担い手にたりえないどころか革命によって排除されるべき対象と、第二革命の宣言。
 20歳の北は『対外膨張論者であった。これは彼の修正変わらざる本質のひとつであって、来たの思想の骨格を極表面的に要約すれば、天皇制打破と大陸膨張主義の特異な結合、すなわち天皇なき革命的大帝国主義と形容してさしつかえない。』(P66)
 『「貧と戦闘との運命」、この言葉は、それを成熟した市民社会に投げこめば何のさざなみも生まない空語であろう。だが、これは、近代市民社会への過渡としての近代天皇制社会においては、貧しい知的青年と大衆の魂をえぐらずにはいない言葉だった。北は思想家として修正、この「貧と戦闘との運命」に忠実であった。彼の思想がのちに、磯部浅市のような種類の青年の心を深くつかんだのは、彼が戦前の日本人の「貧と戦闘との運命」をもっともよく象徴する思想家だったからである。』(P69)
 彼は20の頃から、思想的出発の時点から、ほぼ完全な擬ファシスト的民族国家主義者だった。
 23歳での著作「国家論及び純正社会主義」。『明治・大正・昭和の三代にわたる厖大な政治思想的著作のうち、精魂をこめてとりくむに値するものはそんなに多くはない。北のこの著作はそういう数少ないもののひとつで、彼がこの国の近代政治思想史上もっとも重要な人物のひとりであるのは、ただこの本の著者であるためである。私の考えでは『国家論及び純正社会主義』は思想家北のすべてである。『支那革命外史』も一個の名著であり、『日本改造法案大綱』もまた問題的な文書であるにちがいないが、北の政治思想化としての本質は、この一冊にすべて含まれている。』(P105)
 近年(当時)の北研究は駄本のつみかさねで、北の政治思想をその著書に即して本格的に分析したものは例外的に滝村隆一「北一輝」があるのみ。何度か北一輝ブームがきたのに、『この大著がちゃんと読まれて来なかったのは、ひとつは読むものの目に梁りがあるからである。いうまでもなくそれは通俗マルクス主義と市民主義的アカデミズムの梁りである。』(P106)
 また逆説的な北の思考様式と、速読しようとするとわかりづらい文体と未整理で繰り返しが多いことにもその原因がある。しかし論理的に厳密になるよう書かれているので、丁寧に読もうとすれば『この本の文章は、難解どころか完全に説得的な文章である。つまりこの本は、ちゃんとわかろうと努力する人間には、絶対わかるように書かれている。』(P107)
 北が「国家論及び純正社会主義」で『論じようとしたのは、一言でいえば、来るべき日本社会主義革命の性質であった。』(P111)
 天皇制絶対主義の廃棄とブルジョワジーの二つをどう打倒し、社会主義の実現させるか。北の政治思想化としてのユニークさは、これに対してそれまでもその後も思いつくものがいない解を与えた。そのユニークさのために『農本ファシスト、ウルトラナショナリスト天皇制軍事膨張主義者、革命的ロマン主義者等々』(P112)と様々な呼ばれ方がされたが、彼のイデオロギー分類は「国家社会主義」と分類するのが平凡だがもっとも正確。
 北の社会主義についての見解、当時の日本の水準としては相当なものだが基本的なところで至らない部分もあるが、『そういう理解のいたらなさにもかかわらず、彼は第二インター段階の社会主義理論の骨子をほぼ完全につかんでいた。』(P116)たとえば社会主義の真髄は「分配論でなく生産論」にある、すなわち土地と生産機関の公有と公的経営にあることや、社会主義が現時の経済的潮流資本家大合同の進化であることなども理解していた。
 さらに彼は社会主義革命が世界同時革命でなくてはならない根拠も知っていた。『すなわち、一国の産業を社会主義化することは他国が資本制生産に立っている以上、国際競争と言う点で国家的な不利を招くという、という田島錦治の主張を駁して北は、それゆえにこそ社会主義インターナショナルの運動が存在するとこたえたのである。』(P117)
 学者たちから辟易されるのは、北が自分の使用に適するようにつくり変えた「奇怪」な用語のせいもあるが、しかしそれこそ自分の頭脳で思考した本物の証明。
 『北における社会進化という概念は生物学的進化論に由来するよりも、マルクスにおける社会的存在としての人類の歴史的発展という考え方に、かなり近い』(P125)。彼の進化論の社会理論への導入粉飾的なもので、疑似科学に過ぎない。しかし彼の思想はそうした粉飾なくとも論理的に成立する。
 社会主義が清貧に、下層に停滞するものという理解は正しくなく、上層に進化させるものだとする「天才主義」的社会主義。これは北の好みでなく、科学的社会主義のオーソドックスな立場で、マルクスも変わらぬ。そうしたマルクスや北の考え、今日から見ればユートピズムの系統に入る。『じつは彼の「天才主義」が、歴史的必然によって全大衆が人格と能力の全面的開花を達成するという、ヘーゲルマルクス的理念の嫡出子』(P131)。しかし、その底には人間は共同的なものであるというモチーフがあり、それが彼が自分を社会主義者とみなした理由であり、後に擬ファシスト的な転落をしなければならなくなった原因。
 彼の定義では、民主国を国家が君主や諸侯の所有格(「物格」)から、「人格」として自立した段階としている。国家の「人格」化は、国民の「人格」化でもあり、維新革命で創出された日本近代国家はそれゆえ民主国であり、帝国憲法はその表現と理解した。したがって憲法に地位を明記された天皇は、民主国の意思を忠実に表現する「国家機関」とした。
 そのため『北が来るべき革命を、上部構造的変革を必要としない経済面での補足革命と考えたのは、「民主国」をこのように、法的側面において社会主義的要請はすでに実現したものとみなしたからであった。』(P135)
 この主張は一見、日本はすでに民主国で社会主義革命は国体の変更は伴わないという主張と矛盾があるようにみえる。しかし禁句であるため直接には書いていないが、彼の主張する第二維新革命は天皇制支配の廃絶を第一の任務として含んでいる。
 北の天皇観、維新革命指導者が担ぎ上げた『衰亡に瀕した古代専制君主の遺制、プラスとるにたらぬ京都近傍の小封建領主』(P139)。その天皇が近代国民国家の君主となった理由を、『国家が必要から擁立したのであって、この意味では、天皇は明治国家の完全な被造物である。』(P140)
 そのため『近代天皇は、国家の必要から擁立された「機関」であって、国民の支配者ではないと主張』(P141)。また、そうであるから天皇ロシア皇帝やドイツの皇帝と違い、明治国家の支配者と主張し得ない。
 北は明治維新(維新革命)を、いわゆる維新による貴族主義の破壊と、五箇条の御誓文(万機公論による)という宣言から自由民権運動を通じて「大日本帝国憲法」で一段落した民主主義の建設をあわせた継続運動と見る。
 天皇制度専制支配になったのも(北は社会主義革命と主張するため)維新革命からの逆転現象もみなされたはずだが、『彼はその逆転を、ただ固陋な復古主義者の脳中にだけ存在する妄想であるかに強弁した。』(P145)その理由としては、維新革命が天皇専制国家であってたまるか、父たちが戦い憲法を獲得した明治国家は断固として民主国と解すべきという思いが北にあった。
 『その逆転現象をもって日本国家の本質を「家長国」と認めるのは、父たちが切り開いて来た戦線を蜂起する敗北主義である。維新革命を法源とする日本公民国家の反逆者は、彼らであって自分たちではない。彼らの国体違反、憲法違反こそ、取り締まられるべきではないか。これが北の本音であって、その点では、日本国家は民主国なりという彼の主張はあながち強弁とばかりはいえぬ彼の実感でもあった。』(P145)
 北は国民と天皇が持っている権利義務は、国家に対する権利義務である。『北のいう国家とは国民の理念態』(P147)なので、『天皇は国民の支配者どころか、国民に対しその「機関」として義務を負』っている。そして特権の国王的栄誉権と皇室費の支弁は『天皇の要求しうる権利ではなく、国家すなわち国民が彼に許した権利』(P148)と述べる。
 ようするに北は天皇は「立憲君主」であるとする理論を述べたわけだが、それが憲法の条文から解釈されたものではない。憲法は「国家の本質論」でしか解釈できないとした。
 法文による美濃部のような憲法の合理的解釈では、明治憲法天皇は制限君主であるという条文と、神聖な国家元首であるという条文どちらを選ぶかは恣意性で決まる。それでは反動的憲法論と戦えない。そのため国家の本質、明治国家は維新革命でできた「民主国」であるという本質に求めるべきで、『その立場から反動的な条文は棄却すべきだ、と説いている。』(P150)つまり美濃部批判をしているのであるが、それはよく言われるという青年の客気、功名心でない。その美濃部の技術的合理主義への批判は『やむにやまれぬ思想的戦闘の一端』(P150)。
 しかし北は天皇は国政指導に干与できるとしていた。これは英国的立憲君主とは違うが、『おそらく彼は、維新革命のスピリットが、天皇の中に生き残っているものと期待したのである。このような期待は、かつての革命志士の成れの果てである、藩閥政府の大官にすらかけられていた。北は、彼らがかつての革命家の魂を失って、テルミドール反動のよ首魁となったのを、赤裸々に描き出しながら、それでも埋火のようなものが彼らの胸底に燃え続けているのではないか、という幻想から逃れられないでいた。天皇に対しても同様で、彼のなかにある国家的自覚は、彼の国政干与をけっして誤った方向に導かぬだろうと、北はかなり本気で信じていたようだ。つまり彼は、命じて国家に天皇が存在せしめられている「天則」の意義を、信じすぎていた』(P151)。
 また北は天皇に制限立憲君主というイメージと同じくらい、革命的皇帝、国民的なカリスマ(その形は皇帝だろうが大統領だろうがかまわない)というイメージを持っていた。ナポレオン、明治帝のような。つまり支配者でなく、国民の一員であり、革命のシンボルである皇帝をいただく実質的共和制。
 現在は廃止する時期でないとしたが、『将来かならず天皇自体を廃する時期が来るという展望があったのは、彼の所説からしてほとんど疑えぬ事実である。』(P153)おそらく北は、経済的な社会主義段階まで進化したならば日本は天皇を不要とするだろうと考えていた。
 国民的支持がある明治天皇を革命的シンボルとして取り込むための明治天皇賛美。それも機関である自分の任務をよく自覚していたという賛美。そして万世一系天皇への宗教的帰依をふせぐための、明治天皇「個人」に対する「英雄」視。
 北、戦後の天皇イデオロギー批判を先取りしている。教育勅語が国家機関の意義の外で発表した個人的見解で、個人の内部生活に立ち入って道徳を強制できないとする指摘は、戦後丸山学派の事実上の先取り。
 北は第二革命(第二維新革命=社会主義革命)を天皇専制主義の打倒は議会を通じて実現するつもりであった。
 法律的理想では国民は平等に人格ある国家の一分子だが、その理想は画に描いた餅である。政治上の国家では、国民は資本家が自由に処分できる経済物に過ぎない、その理想と現実の乖離を回復し、法律的平等を経済的平等で裏打ちする。この北の理論はエンゲルスがよく使った論法と同じ。しかし『ブルジョワ階級国家が即、法律的には社会主義国家だとは、エンゲルスが考えもせず書きもしなかったことである。ところが北はそう考えた。これが北の発想の根本的に特異な点』(P160)。
 北は民主主義革命・社会主義革命は本質的に同一で、「維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明かに意識したる点に於て社会主義」という。民主主義革命と社会主義革命を連続的革命と捉えている。なぜなら民主主義革命は平等という理想を法律の上で表現して、社会主義革命はそれを国民の現実生活に実現するからとしている。
 北は維新後ブルジョワの経済支配がなったことを経済史的な必然と認めているが、それがなったのは革命が簒奪されたからであり不必要な迂回・錯誤であり、封建社会からブルジョワ社会への発展を必然と認めない。すなわち明治維新は理念的には法律的にも経済的にも直ちに社会主義国家を実現させる本質をもっていたが、『歪曲されてついにブルジョワ階級を出現させてしまった<裏切られた革命>』(P164-5)。
 北の社会発展図式が『封建社会・資本社会・社会主義社会という普通の三段階説をとらず、本質的には家長国家・近代公民国家という二段階説』をとっていた。それは『維新革命の性格に関するとほうもない幻想的把握』であるが、『その幻想的把握には、歴史的にも理論的にも、軽んずることのできぬ根拠があった』(P165)
 市民社会原理の基本的仮定である原子的個人は想像上のもので、『彼は個人を社会の延長と見、社会を個人の延長と見る。』(P166)こうした北の考えは、『其の実態においては、近世村落共同体からいきなり資本制市民社会のただなかに引き出されたわが国の基層民の、市民社会論理に対する恐怖と嫌悪の表現とみなすことができる。』(P167)
 伝統的な共同社会にいた基層民のそうした心情、資本制市民社会への異和からラジカルな共同性への飢渇感が生まれる。そして『日本はそういう市民社会を拒否して、社会的共同性を貫徹するコミューン社会へ発展すべきである、という主張になった。私が先に日本コミューン主義という手製の言葉で表現しようとしたものは、このような社会的ないし政治的イデオロギーの潮流のこと』(P168)。
 そうした日本コミューン主義思想の代表が北一輝権藤成卿。そしてその源流は西郷隆盛。右派は対外的自主路線、対外硬の思想だけ受け継ぎ、そうした基層民の共同体への飢渇には目を向けなかった。右翼とそうした思想が結合するのは早くとも大正中期、北の「日本改造法案大綱」が新右翼の政治綱領として導入された大正八年がその転機を画す年。
 北には日本共同体農民の心情に対する体験的理解はなく、基層民の欲求に心をそそられることは生涯なかった。むしろ土俗的なものへの嫌悪感があった。しかし彼が「国体論及び純正社会主義」でしたブルジョワ市民社会原理への批判は『広い社会的文脈においてはあきらかに、確立しつつある市民社会的システムから追い立てられた日本基層民の、共同性への飢渇の理論的表現だった』(P171)。こうした共同体願望、日本に特有のものでなくフランス革命時にも見られるもの。
 明治期において、そうした反市民社会的感情はまだ潜在的なものだった。彼のこの著作は『日本基層民の社会願望のひじょうにはやい理論化であったのみならず、その理論化においてもっとも徹底的な仕事であった。』(P178)
 しかし誤謬も徹底的で、個を社会=国家と同一視する論理で誤りをおかす。国家が侵すべきでないこの領域に鋭い自覚を持ちながらも、『彼の思考は対極的には、国家=社会を個に優先させる全体主義的政治哲学の系統に属するものになっている。』(P178)
 北は市民主義的論理を知らなかったから、国家と社会を同一視したのではなく、市民主義的知への批判として提起している。社会を原子的個人が自由と権利を争っている自然状態と理解するから、国家は人為的権力機構に見えるが、北は社会を有機的共同社会と理解する。そして『国家が支配者の権力装置ではなく、国民の平等な政治的団結を示すものとなった状態を仮定して、社会と国家を同一視している』(P180)。
 『社会の内部の支配関係が廃絶され、全人民的所有の国家が完成されたと称するとき、ソヴィエト社会主義国家官僚の頭脳の中では、社会と国家はもはや同一の異名と観ぜられているだろう。北が社会と国家を同一視したとき、彼の脳中で、これとほぼ同じことが生じていたのである。』(P180)ソビエト的。
 北にとって封建的鎖から解き放たれたのは国民というより国家。そして国家を擬制としての人格でなく、実在の人格であり、『人為をもって消滅させることのできぬ「社会的団結」である』(P184)とした。
 北は明治憲法の<天皇の国民>を<国民の天皇>と読み替えたのではなく、<国家の天皇>であり<国家の国民>であると主張した。こうした北の主張、国家有機体説の一変種、しかし有機体説の極度の昂進で国家の物神化。それは北が『人間存在を強度に共同体的なものとしてしか考えられなかったことから生じた。』(P185)
 『彼が夢想するのは、個が、一個の生命体といってよいほど強固な共同的関係に包摂されているあり方』(P185)で、それを彼は<国家>と呼んだ。
 『北は、彼の全体イクォール個の主張によって、民族共同体の幻想で階級支配を覆いかくす右翼ナショナリストの誤りを犯したのではない。彼の全体イクォール個の主張が内包する誤りは、むしろ、スターリン毛沢東社会主義愛国主義の内包する誤りに近似している。』(P186)
 そして「共同社会願望」は日本人の特産でなく(明治にいきなり別文化である西欧型の市民社会が導入されたことによる摩擦によって、より過激なものとして噴出したかもしれないが)、そうした『人間関係において共同的なものを求めてやまぬ欲求(中略)は、洋の東西を問わず、近代社会を貫くひとつの基本的衝動であったといっていい。そのような衝動は、典型的な市民革命であるフランス革命をさえ貫いていた。』(P187)
 『フランス革命の左派全盛期においては、市民(シトワイヤン)は兄弟・同朋を意味したであろう。だが、シトワイヤンは同時に、祖国防衛という愛国的義務を自覚する公民である。共同社会における全体と個の融合を求めるブルジョワ革命左派の幻想は、かくして、国民国家における愛国的義務のレヴェルにおける、全体と個の一致の幻想にまで縮小する。/ 問題を民族国家水準でとらえるとき、こういう縮小はおよそ法則的である。スターリン毛沢東アラゴンも、そして北一輝もその法則を免れることはできなかった。彼らは社会主義を担保することによって、全体イクォール個という命題を実質たらしめることができると考えた。だが民族国家という視点を廃棄できぬかぎり、その命題はつねに国家市場主義的マヌーヴァーに終わる。擬似的な共同性は、それが強大化すればするほど、対極の市民社会的個を強化する。すなわちそれは市民社会的個を思想的に克服することができず、”共産主義的事故改造”という名の魔女狩りや、解放戦争という名の”義戦”を発動するところへ行き塚ざるをえない。北がこのあとたどる思想的悲劇は、かたちこそ変れ、スターリンや毛がたどったそれと本質においては同一とみなすべきである。』(P188)
 明治の社会主義者や昭和の社会主義者明治維新を「反伝統的な革命」とした。それは国民感情的には受け入れがたいものがあり、彼らによる革命が成功する可能性はなかった。しかし『北は逆に、維新革命の意味を極限的に膨張させ、それを未完のなお継続しつつある革命ととらえることによって、明治国民国家に吸収されつつある国民のナショナルな幻想を、そのまま第二革命のエネルギーとして動員する戦略をとった。この戦略の現実性の秘密は、それが支配権力に対する反逆を、明治固化の法的源泉である維新革命の立場から正当化しうる点にある。個の正当化の逆接こそ、天才児北の魔術の一切であった。』(P189)
 一般的に彼は天皇社会主義者のように見られているが、実際の北は『明治三十九年という早い時期において、このように天皇社会主義への、今日考えうるかぎりで最高に正確な批判者』(P191)だった。
 23歳で「国家論及び純正社会主義」を書いたころの北は、20の頃の素朴な満韓膨張論者でなくなる。そうした主張は後年ほとんど放棄したもので、その主張にまとまりはない。『しかしそのことは逆に、彼がこのとき、自分の内部の民族主義的衝動に対し、いかに真剣に抑制的であろうとしたかを物語っている。』(P197)
 日露戦争の時にした北の訴えが組織的かつ大量になされていたら、『北の目指す国民社会主義運動は、ムソリーニやヒトラー第一次大戦後獲得しえた程度の大衆的基盤を、国民のうちに築きえていたかもしれない。』(P198)しかし北が煽動して要求していたものは普通選挙権であり、これさえ獲得したら日本社会主義の勝利は目前だとずいぶん楽観的な見通しだった。
 議会によって平和的に社会主義革命が果たせるという目論見は、北の論理では日本定刻は法律上そもそも社会主義であるのだから、支配者はこの論理を受け入れないだろうが、民衆がこの論理を正当なものと認め闘争すれば、それに抗えないだろうというもので、それゆえの議会によって社会主義革命が達成できるというのが北の読みであった。
 しかし北は天皇制権力の強さと民衆の普通選挙の意義の理解度合いを読み違えていた。彼らは自身の欲求(共同性への欲求、資本制市民社会に反対という)表現を投票行動で示すことは考えたことがなく、単に普通選挙となった選挙を地縁血縁による振る舞い酒の機会程度にしか思っていなかった。
 そして彼は国民の愛国的な衝迫を革命の動力にしようとして、国家を共同社会と読み替えることで市民社会になじめない基層民に革命の論理に通路を付けようとした。しかし彼には基層民の<共同的なもの>への深い憧憬は感じ取とれなかった。そのため『彼らのいちばん深い欲求に、火をつける方法を知らなかった。』(P202)だが、それが国家意識という近代化された形態をとってはじめて感知できた。
 そうした徹底した近代主義、論理性の深度によって、彼の思想は『日本コミューン主義の系譜中、唯一本格的な検討にあたいする理論になりえている』(P203)が、論理性を手放さない一方で『国民の本質的に反近代的なエートスを、根本動力と仮定せねばならなくなった』(P204)。
 しかし彼は論理性の成り立たない『愛国とか国家意識という衣裳をかぶっている下層民の共同願望の、もっとも初原的な、蒙昧で粗野なありかたについては、かれはそこまで降りて行くことを嫌った。』(P204)そのことが革命家としての彼の手足を縛る。『彼が後年、策謀とか支配エリートへの入説とか、一言で言えば状況への操作をつねとする陰謀的革命家と化した理由は、ここに求められる。』(P204-5)
 「国家論及び純正社会主義」時代先取りしていて、『それが社会的衝撃性を現実におびるのには、こののちほぼ二十年の歳月が必要だった。』(P209)そしてこの本が現実に革命的な作用を帯びることはなかった(二・二六の青年将校に影響を与えたのは『日本改造法案』と『支那革命外史』)。そして彼がこの後、理論的仕事をすることはなかったし、その思想の質を深めることもしなかった。『彼は一生勉強を廃さなかった男であるけれども、二十三歳のときに生涯の思想的主題をほぼ完全に展開し切って』(P212)いた。
 「国家論及び純正社会主義」が発禁になったあと、もう国家に遠慮することはないと行動の道へ。天皇制を手玉に取れる、論理的理論を作ることで合法的謀反が可能と楽観、自己過信していたが、その本が禁書になったことで、国体への認識が修正され、彼は『自殺と暗殺』という論文で、政治的暗殺も可であるとする。天皇制との闘争路線に転換。立憲的天皇像を修正し、この後、北は革命は合法的手段で足りるという主張を再び繰り返すことはなかった。
 当時、彼の第二革命の論理を革命理論として受け入れる社会主義的運動体はなかった。理論的なものがかけていた、宮崎滔天の革命評論社に入る。彼らは20年前の民権論者で頭は古いが、思想的には西郷党の遺児で、藩閥政府とそれが奉戴する天皇制主義の正統性を否認する目を持っていて、意識の深いところに第二維新革命を戦いたいという衝動が眠っていたということもあって、そうした武装革命の必要性の感覚が共通していたこともあり、北はここに「耕すべき畠」があると思い彼らの仲間に入る。
 北、明治の社会主義者のように貧富問題に目覚めて社会主義者となったわけではない。そうではなく『彼にもともとあったのは、天皇制権力を顛覆したいという反乱の衝動であった。』(P228)そしてそこから社会主義に到達。
 『この男のなかには、なんと古い陰謀家の血が流れていることだろう。彼は、さまざまな苦渋や蹉跌を閲した後年になって、ああいう端倪すべからざる陰謀家になったのではなかった。『国体論及び純正社会主義』を書いたとき、彼は舌先三寸で日本帝国を盗み取ろうとしていたのである。この青年のなかに潜んでいる情念は、彼より年長の明治社会主義者たちのそれより、はるかに古い情念に属している。それは、古代ギリシャの雄弁家や、中国戦国期の縦横家の情念にほぼひとしくさえある。一個の頭脳をもってよく一国の権力と対峙しようというのが、その情念の実質であった。』(P230)
 そして彼は『できることなら四十年前に生まれ変って、維新革命をやり直したかった男』(P255)であった。
 ただ革命評論社は孫文らの中国革命同盟会を支援する団体で、日本での革命を意図していない。そして北はその後本来の目的の日本の革命をほうっておいて、13年もの間中国革命に没頭することになる。なかばいずれ日本で事を起こす前に、謀反(武装反乱)の稽古ができることを魅力として、この団体に加入。そしてその日々は彼に浪人的性格と『国家的規模の策略をこととする蘇泰張儀的な献策家の性格』(P234)の2つの属性を身につけさせた。
 北は同盟会で孫文と対立していた民族主義的宋教仁と親交深める。北は、彼の中に自分の似姿を見た。
 大隈首相と石井外相に中国革命の事情を話せという要請があり、『支那革命外史』はそのとき総理大臣大隈重信への入説のために書かれた。そこで彼は中国と提携して英露をアジアから撃攘する方策をとるよう訴えた。
 『北は、本書において、理論家として語り、歴史家として舞い、詩人として予言している。そして文章においては、北が立ったのは彼の一生における絶巓である。/ 北がこの本で到達した文体は、理論を語ることと、歴史を叙べることと、詩として結晶することを、同時に可能にするような文体である。稀有のことというほかない。』(P273)
 「支那革命外史」で『革命的大帝国の樹立を自己目的とするところにまで転位』(P292)した。この本は「日本改造法案」で擬ファシスト的理論になるまでのつなぎ目。
 北一輝は「日本改造法案」で、資本金1000万以上の企業、私有財産は一家族100万までは認めた。それは資本金1000万は現在の数百億で大資本、鴻池銀行伊藤忠商事などもそれにはいる。北の考え、『いかなる社会主義国においても個人の私産は許されるし、その私産が一定限度内で資本としての働きを営むことは認めざるをえない。後者の働きを認めぬ社会主義国家が兵営国家ないし官僚国家に転落するのは、すでに先行例の示すとおりで、その限度をどこに設けるかというところに、今日の社会主義経済体制の試行錯誤が存在する。北はその限度を大きくとっただけで、その大きさに彼のブルジョワ近代主義者たる半身が現れている。』(P306)つまり物質への人間の欲求を大きな範囲で認めないと自分が不自由さを覚えるものだから大きく取った。
 そして彼は革命の打倒対象として大ブルジョワジー天皇専制主義官僚とを除き、階級的規定していない。『北は階級革命でなく国民革命の視点に立っているのだから、このことは当然』(P309)。彼がやろうとしていたのは党の存在しない国民の革命。
 北の対外膨張と国内改造は不可分なもの。対外膨張のため国内改造を述べる北はファシストに似てくる。一方で国内改造を前提として英植民地領の分配要求をするときの『彼は、ポーランド地主的圧政下にあるよりも、社会主義ソ連に帰属したほうが幸せだと考えた、三○年代スターリニストに大変似てくるのである。』(P317)
 大正8・9年の戦前日本国家、それまでは資本制創設を目標にしながら、それとは異質な価値観を持つ村落や下町の住民である基層民を『天皇制共同社会の幻想によって、資本主義国家として民族的自立の方向に動員するという、およそ奇跡的な動力額的操作に成功して来た』(P318)。しかし『建設の完了した資本制的市民社会の諸体系と、基層民に吹き込まれた天皇制共同社会の幻想との完全な乖離』(P318)から破綻、それによって明治国家が基層民を動員してきた幻想を実現させるために、基層民たちが権力に対抗してくるようになった。それを誘導し加速させたイデオローグたちの一群に、現実と幻想の中間に位置する中間イデオローグの最も醒め、最も優秀なものとして北がいる。
 中間イデオローグが、基層民たちに自分たちを苦しめる資本制市民社会を体現しているように見える支配エリート上層の欧米強調派への反抗心と、支配グループ下層の反欧米市民主義派への支持をもたらす。
 北、天皇を『革命の至尊なる捕虜とする』(P324)という指向のため、偽装された不逞思想と生前から疑われていた。『彼は天皇を玉として扱った維新革命家の後裔』(P329)。
 政治的に現れる典型的ファシストと違うから、擬ファシストと表現しているが、『思想本質としてみれば、彼の思想は、もっとも純粋な革命的ファシズムの形姿を示すものかもしれない。そしてそれは北にとって、まさに純正な社会主義でもあった。』(P325)
 中間イデオローグによって、基層民たちが自分たちを無間地獄に落としつつある資本制市民社会の論理を体現しているように見えた支配エリート内の欧米強調派への反感を覚え、支配グループにいる欧米市民主義を敵視するグループに共感するようになる流れが加速。
 「国体論及び純正社会主義」では大衆運動で革命成就されるとしたが、後の学習でそれは放棄した。このころは上からの革命が下からの革命に劣るという価値観なく、だからそのほうが効率的だからと、まず皇太子(後の昭和天皇)にとりいろうとした。
 北は大衆を組織すること、感覚的に嫌悪していた。
 またこのころ北は資本家から恐喝的行為をして収入にしていた。そしてそのゆすり方は巧みで常人のものではない執拗さがあったと池田成彬は述べる。
 しかしロンドン海軍条約反対の際に、統帥権干犯という攻撃手段を案出したのって北一輝、あなただったのね。封建勢力を利用、支援して資本主義打倒に向かって闘争するものであるとしているが、それが後々あんなに響くことになるんだから。
 北はロンドン海軍軍縮条約のような幣原外交を屈辱外交と感じる一方で、対外硬の情動を危険なものとみなすリアリスト。
 二・二六事件青年将校と北とでは、天皇観がぜんぜん違う。北は直接青年将校を直接指導していない。指導あったと認めさせようとする政府側の取調べでも言質を与えないように苦労していて、心中する気さらさらなかったが、青年将校たちが処刑されたことで見殺しにできないと思い自身もともに死ぬことを選ぶ。だが、自分や青年将校の死を「改造」実現の人柱とするため、それに含まれる不敬な本質については否定し続ける。
 しかし北の公民国家観、たぶんに理想主義的だな。『彼が夢想するのは、個が、一個の生命体といってよいほど強固な共同的関係に包摂されているあり方』(P185)というほど、共同体重視となると、なんかディストピアチックな未来像しか浮かばんのよな。