泉光院江戸旅日記

内容(「BOOK」データベースより)

文化九年九月(1812年10月)、一人の老修験者が日向国佐土原を旅立った。野田泉光院成亮、佐土原の真言系当山派の山伏寺、安宮寺の住職であり、高位の山伏である。南は鹿児島から北は秋田まで農山村を中心として托鉢をしながら、時には加持祈祷をし、また、時には句を交換し、頼まれれば弓を教え、居合術まで見せつつ日本中を歩き抜き、六年二ヶ月に及ぶ回国修行の記録を『日本九峰修行日記』としてまとめた。ここに見られるのは豊かさや明るさも多くある農山村の人々の暮らしぶりである。この書を丹念にたどり、都市だけでなく農山村を含めた江戸最盛期、文化年間の生活を考察する。


 1812年から1818年まで托鉢をしながら諸国を回った、教養もあり武芸も達者な老山伏泉光院(国元ではかなり大きな寺の住職であった)がつけた記録から当時の中・下層の庶民の生活を見る。托鉢は人通りが多い東海道などの街道沿いやにぎやかな町よりも、農村・山村地帯のほうが喜捨も多いためそうした場所を移動しているので、街道沿いの普通の江戸の旅行の記録とは一味違っている。泉光院は宮崎・佐土原の人間で、6年間の日本廻国の旅の中で足を踏み入れていない県は北海道・沖縄を除くと、青森・岩手、そして香川・徳島・高知だけ。
 泉光院は強力(荷物を背負い持ち歩く人)として平四郎(町人)をお供にして、回国修行のたびに出た。この平四郎は泉光院の記述――たとえば彼は托鉢をするのにお札を作って托鉢をしてくれた人に渡すのは効率が悪いのではないか泉光院に意見したり、宿泊した家の人を喜ばせるために話を盛ったりした――からもちょっと個性が見えて面白いな。
 何かどこどこへ行くという一つの目的地があるわけではなく、托鉢をしながら、そして土地土地を廻り見ながらのゆっくりをした旅なので、かなり土地を移動するペースがスローだが、その分だけ1つの土地に何日、あるいは年末年始の年宿などで何十日といることも多いため、泉光院のそれらの土地での交流やその地の人々の生活もただ通り過ぎるだけよりも多く書かれるので嬉しい。なぜなら、そうして泉光院が一所に長逗留してくれることで、各地の人々の生活が書かれ、そのおかげで当時の日本の庶民の生活の雰囲気を良く知ることができるからだ。
 泉光院はそうした旅の最中で頼まれれば加持・祈祷や占いをしたり、同じ山伏に請われて秘法を教えたり、あるいは学問を土地の人に教えたりしていた。
 しかし普通の町民や農民の旅行者が結構多く、また女性だけのグループ旅行しているなんてこともあったようで、江戸時代の庶民層の旅行者が多いことに驚く。まあ、伊勢参りにかなりの人数が行っていたのだからその旅行者が多いのは知っていたが、別に伊勢参りとは関係なくても多くの人が旅行しているというのはちょっと意外だった。例えば、長崎在住で泉光院も長崎で出会った人が、家族3人で四国巡拝に行く途中に山口県の姉の家に春になるまでと引き止められているところに、泉光院が出会うというような偶然があったことからも土地に縛られていたイメージがあるけど、実際にはそんなイメージよりもずっとずっと自由だったことが伺える。
 細かなところは省略されていて、基本的に泉光院の旅を時系列順に大きく飛ばすことはなく、追っていっている。そして途中途中で著者の説明が入るという形式で書かれている。途中途中ではいる著者の説明・解説がアクセントになっているし、また細かなところ(詳細な寺社についての記述など)が省かれているので、読んでいて単調に思えて退屈になることもない。
 大きく飛ばしたり、エピソードの種類毎に区分けをしてまとめたりということがない分だけ何度も出てくるエピソード、例えばどこにも泊めてもらえずに困っていたらそれを見た誰かしらが新設にも泊めてくれたなど、が印象に残るし当時の雰囲気を良く伝えてくれる。そのため、泊まる場所がなくて困っている旅人を見て、泊まるようにすすめてくれる親切な人は、日本全国津々浦々どこにでもいたし、そうして泊めてもらうという出来事は決して珍しいことではなかったなど事実を心の奥にまでしっかりと根付かせてくれる。他にも他の旅行者や、六部(巡礼者、またはその格好をして諸国を旅する人々)の記述がたびたび出てくることから、旅人というのは決して珍しいものではないということがわかる。
 そして6年間の回国していた期間中にどこかの家に泊めてもらえずに金を払って宿泊施設に泊まったことは数少ないというのはちょっと驚きだし、また泊めてもらうだけでなく食事まで出してもらうことも結構あったようだ。まあ、それは本人が教養ある老山伏だという事情も大きいのかもしれないが。
 関所や番所、薩摩のように出入国が厳しく管理しているところは稀というか薩摩くらい厳しいところが異常で、全国的に見れば小規模な番所さえないところが普通だった。それはなんとなく知識とはしては知っていても、いまいちどの程度までゆるかったのかがわからなかったのだが、今回この本を読んでみて、想像よりもずっとそうした藩境間の移動は容易だったのだなと感じた。例えば本州に入ってから中国地方から丹後、近江、山城、丹波、越前などの諸国を歩いてくるまでの間に番所があったのは、石見・出雲国境と福知山城下の2箇所だけその二つの番所もいずれも手形も見せずに通り過ぎている。あるいは幕府直轄地の番所でも、ここは往来手形では通しませんぜひ俳句を詠んでくださいといわれたなど、国境が厳重に管理されていたというイメージがあるが、実際はぜんぜん違い番所の数自体が少なく番所があったとしてもチェックをほとんどしなくて、ほとんどフリーパスなところがほとんどだったようだ。
 修行者が参詣すると、軽食を出してくれるという慣習を持つ寺社が方々にあった。
 泉光院の旅は三宝院門跡の公用、つまり皇族の命を受けての調査旅行でもあったようだ。それもあって菊のご紋章の使用が許可されていたから、それを見た旅籠の人が扱いをがらりと変えたというのは、著者も指摘しているようにその時代の九州・宮崎(畿外)の人でもそうした皇室への敬意の感覚があったということがわかって興味深い。もっと無関心だとなんとなく想像していたからちょっと意外に思ったけど、そうした敬意の感覚があったと知って、そういえばこの時代商家などでも官職を手に入れてそれを名乗って商売したりしていたとも聞くから、そういうこともあるから案外馴染みがあって、だから敬意を示す感覚もあったのかな。
 善根宿という、諸国行脚の僧、修行者、あるいは行きくれて困っている人などを泊めることにしている家が全国のあちこちにあったというのは感嘆する。国家の福祉施設とかそういうのでもないのに、純粋に善意でそういうことをしている人たちがいたのだなあ。
 当時年をとって卵を産まなくなった鶏は大きな自社の境内に離す風習があったようで、寺社の境内に鶏がいて、餌を求めて参拝の人にまとわりつくというのは珍しい光景ではなかったようだ。その風習は知らなかったが面白いな。
 この時代には年宿という、回国している修行者や六部などを年末年始の半月から一月の間、一般の家が無料で泊めるという風習があったようだが、そうした風習があったことにはちょっと驚く。
 6年間諸国を回っていたが、その間に彼が直接見聞した犯罪は長崎で宿泊している隣の家で起こった盗賊(強盗?空き巣?)の一回きり。まあ、泉光院が賑わっている場所でなく、互いに顔見知りであるだろう農村・山村地帯を廻っているという事情もちょっと関与しているのかもしれないが。
 長崎では何か珍しいものや食べ物があったら買うために常に小額のお金を持ち歩いていたと珍しがっているが、それは当時はお金が現在よりもずっと重たいものということもあって、江戸でも買い付けの店で買い現金決済の機会が少なかったこともあって泉光院の目には長崎のそうした習慣が珍しく映ったようだ。また、そうやって小額の買い物ができる場所が色々あるくらい長崎では小売業が発達していた。
 「剣術修行の旅日記」で自分の誕生日を一人酒をして祝っていた記述があったから、それなりに誕生日を江戸時代の人も意識していたのかなと思っていたが、泉光院は6年間誕生日について一切記していないから、誕生日というのは普通は意識されていなかったということなのかな。「剣術修行の旅日記」の人がちょっと変わっているだけで。あるいは土地だったり、世代の違いという可能性もあるけど。
 国替えで日向から転封させられた藩の武士たちが、同じ日向から来た泉光院が城下にいることを知って、故郷を懐かしがって日向のことを聞きに来る人が多くなったというエピソードを読んでそうした人々に興味がわき、転封によって故郷から引き離された人の望郷の念を描いた本・小説でもあればちょっと読んでみたいと感じた。