足利尊氏と関東

足利尊氏と関東 (人をあるく)

足利尊氏と関東 (人をあるく)

内容(「BOOK」データベースより)

周囲の敵と闘い続け、京都に新たな武家政権を築いた足利尊氏。青春の日々を過ごした関東を中心に生涯を辿り、お調子者でありながらもナイーブなその内面に迫る。尊氏ゆかりの足利や鎌倉を訪ね、等身大の実像を探る。


 著者の本はどれも読みやすく面白いので、購入し読了。歴史系の雑誌とかムック本とかはあまり読まないから、図版がカラーで入っているような本は読む機会はないけど、この本は図版がカラーで入っているのでちょっと新鮮な感じがした。しかし図版がカラーだとやっぱり見やすいし、モノクロよりもずっと図版の印象が鮮明になるからいいね。
 冒頭の「転換する尊氏像」で、戦前の歴史観では足利尊氏は大悪人で逆賊とされていたから、尊氏の墓がある寺では遠足に来た小学生の生徒たちが尊氏の墓石をけり倒すことが絶えず、それを引率の先生も止めるどころか微笑を浮かべて静観していたということや足利家の血を引く人は尊氏が扱われる歴史の授業のとき級友の視線がつらかったし「いくら懺悔しても許されない罪が体内の血液のようにしつこく、自分におおいかぶさっている気持ちでいた」ことや、栃木県足利の人たちも東京に働きに出ると陰湿な虐めにあうことがあったというようなことが書かれていて、そのような現在では考えられないレベルである歴史上の人物への憎悪が巨大で、一般的なものになっているという過去の事実には、戦前は足利尊氏が大悪人とされていたことは知っていてもそういう具体的なエピソードで尊氏に対する嫌悪の念の大きさを見ると、ちょっと驚いてしまう。
 「I 足利尊氏の履歴書」では、時系列順に尊氏の生涯の事跡について手際よく簡潔でわかりやすくまとめてくれているし、また一般的なイメージと違う最近の研究などで明らかになった尊氏について説明がされていて興味深い。鎌倉幕府を離反する前の尊氏について知らなかったので、そこらへんのことも知ることができたので、読んでいて面白かった。
 尊氏には兄がいたため、生まれた時点では足利家の後継者になる予定がなく、また彼の母親は側室なので北条の家の出身ではないというのも、鎌倉時代足利市は代々北条氏から妻を取っていたから、当主となった尊氏の母も北条氏だろうとなんとなく考えていたので意外だった。
 当主となっていた兄が死んだ後も兄の子がいるので、ただちに次期当主となれたわけではなく、兄が死亡した後は父貞氏が再び家督の座に復帰していた。そして尊氏が足利家の家督を継承するのは、父が死んだ(1331年9月)あとのことで、彼は27歳になってからようやく足利家の当主になったが、それまで非常に不安定な立場におかれていた。
 後醍醐天皇が二度目の倒幕活動を開始した、元弘の乱がはじまったのは1331年8月なので、それが始まったときもまだ尊氏が足利家の当主ではなかったというのはちょっと驚く。そして父の喪が明けず、弔いも満足にできないままに、討伐軍の大将に命じられて出征させられたことや島流しにされていた隠岐から後醍醐が脱出したときに尊氏は病中にあったのに出征を命じたことが後の幕府に反逆を決意させる契機となったかもしれない。
 尊氏は当主となった日が浅い妾腹の次男坊という出自だったため、血統に対する自負は言われているほど高くない。ただ尊氏の妻は北条氏であこの時代の妻の持つ権限も強かったが、母の持つ権限はそれ以上に強かったため、母の実家である上杉氏を中心として家中の北条に特別な恩義を感じることなく北条の風下に立つことを潔しとしないグループに後押しされる形で反逆に踏み切った。
 建武政権内で尊氏はかなり高い次元から全国の武士に指示を出す役割すら委ねられていて、直義も関東十カ国を統括する鎌倉府を任されていたり、高師直ら尊氏の配下が雑訴決断所や武者どころに少なからず参画しているので、『梅松論』での「高氏なし」云々という記述は建武政権で冷遇されていたことを主張し謀反を正当化するために書かれたもののようだ。
 尊氏は大度量の持ち主であるということができるが、同時にすべてにおいて無頓着ということもできる。そして普段は相手によらず無類の愛着をしめすが、状況しだいでは高師直、弟の直義をあっさりきるなど愛情を多くの人に注げるが究極的には冷淡になれる人。
 護良親王、二度にわたる尊氏暗殺計画の失敗により幽閉され、中先代の乱のときにどさくさまぎれに直義に殺される。尊氏暗殺計画というのはちょっと記憶になかったので、その暗殺計画の詳細知りたいな。
 中先代の乱、当時は一時のこととはいえ形式上「鎌倉幕府」が復活したと認識していたというのは知らなかったのでその事実には目を見開かされる。尊氏が鎌倉を占拠した北条氏勢力を討伐するために征夷大将軍の地位を要求したのは尊氏の自信と自覚が強まったこともあるが、それが即座に建武政権から離脱し新たな幕府を築くことには繋がらず「鎌倉幕府」に対抗するための正当性を掲げる必要があったという事情もあった。
 しかし鎌倉の北条氏を破って京都に戻ろうとしない尊氏を見て、尊氏討伐を決意した後醍醐天皇の対応を見て、尊氏は打ちのめされて、政務の一切を直義に譲り出家しようとする彼の投げ出し癖という悪い癖が出てしまった。しかし最後には彼は個人的な感情と足利当主という社会的立場が対立して苦悩することが多かったが、『悩みぬいた末に彼は必ず自己の感情を犠牲にする結論を選んでいる。ここに人間尊氏の悲劇があった。』(P56)
 後醍醐天皇の闘争は最初から不本意で、そのため彼を退位させて光明天皇が新たな天皇となっても、後醍醐天皇の息子を光明天皇の皇太子として据え、また終生後醍醐天皇に寛容で、心中に深く後醍醐に対する罪悪感を持っていたし、後醍醐への追慕・悔悟の念が強く、彼に反逆したことは終生心の傷として尊氏の心に残った。そしてそのため、後醍醐の冥福を祈る天竜寺の造営をすることになる。天竜寺を作ったのって、何らかの政治的な利用のためかと思ったが純粋に後醍醐のために、そして自分の心の平穏のために作ったようなものだったとはちと意外。
 尊氏、軍事的な勲功を重視して戦場で功をあげた者に即座に所領を安堵するなどしていたことが彼を慕う武士たちを増やしたが、その反面で現地の状況を無視していた安堵が乱発されたことで大きな禍根を生じさせた。
 源頼朝と共に行動した、足利義兼は身長八尺で怪力という伝承が残る豪傑タイプの人間だとは知らなかった。「やる夫 鎌倉」ではやる夫がアバターとなっていたから、そんなタイプの人間だとは意外だ。しかし身長は流石に盛りすぎていると感じるな。
 「II 歴代足利一族をめぐる伝説と史実」精神病的な特徴が歴代当主に出る異常な血統と見られることもあるが、実際は歴代当主の一見不可解な行動の裏に政治的な目論見があると考えられることや、難しい政治的な状況の中で精神的バランスを崩した結果ということが書かれている。
 一人の当主尊氏の父貞氏が精神のバランスを崩していて、尊氏も情緒の振り幅が激しい人間であったから、『難太平記』で貞氏・尊氏の精神的な不安定さを神秘性とすることで他の足利庶家にないプラス要素として、足利嫡流が源氏の棟梁として君臨する正当性を示すための神話としてそうしたエピソードが書かれた。そのため、そうした異常な血統であるという見方が作られた。
 「III足利・鎌倉の故地を歩く」足利家ゆかりの足利・鎌倉の関連史跡の紹介や一日でどういう順序で見に行けばいいかと言う見本の観光コースがいくつかあげられているという観光ガイド的な30ページ程度の章。実際にその土地のその史跡に行ってこの本の足利家の関連について読みながら、その史跡を見るというには便利なのかもしれないが、基本的に出不精なものでわざわざ足を伸ばして言ってみようとはなかなか思わないので個人的には退屈な章。しかし足利学校、戦国時代には3000人の学徒を抱えるほど繁栄していたというのは知らなかったのでちょっと驚いた。その記述を見て、足利学校のことがちょっと知りたくなってきた。