神話の力

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

世界中の民族がもつ独自の神話体系には共通の主題や題材も多く、私たちの社会の見えない基盤となっている。神話はなんのために生まれ、私たちに何を語ろうというのか?ジョン・レノン暗殺からスター・ウォーズまでを例に現代人の精神の奥底に潜む神話の影響を明らかにし、綿々たる精神の旅の果てに私たちがどのように生きるべきか、という問いにも答えていく。神話学の巨匠の遺作となった驚異と感動の名著。

 神話についての対談、モイヤーズが聞き手に徹して、モイヤーズが語る。有名な本なので読みたいと思っていたけれど、いざ買うと手元に置いているというそれだけでなんか安心してしまうのかしらないけど、ずいぶんと積んでいたなあ。いつ買ったのかすら記憶があいまいなくらいだ、たぶん1年2年くらい前だと思うけど。
 多くの昔からの神話を失った現代だからこそ神話の重要性を改めて見直さなければならないというメッセージは伝わったし、随所随所に印象に残る言葉はあったけど、人間の精神の根源みたいなものにそこまで強い関心がもっていないことや知識がもっとちゃんと持っていないということもあって、いまいち理解できていない感があってちょっともやもやする。例えば、問いに対して、微妙にずれた解答というか、それで答えになっているのかもしれないがわかりづらくて読み取れていない部分とか、会話がどう繋がっているのかちょっと困惑してしまうような部分もあって、対談集だからもっとさらっと読めると思っていたが予想外に読むのに時間が掛かった。まあ、それは主に私の読解力のなさに原因があると思うから自業自得にすぎないのだろうけど。
 あるいは、解説にあるようにモイヤーズが聞き手に徹したことで、深く豊かな内容を持つことになり、時代を超えて読み継がれる内容となったが、そのことで逆にそうした微妙な分かりづらさみたいなものが生まれたのかなとも思う。
 あと別に感銘を受けた言葉と言うわけではないのだが、「人生のすべては瞑想です――その大部分は意図的でない瞑想ですが。多くの人々は人生の大半を、金はどこから来るのか、それはまたどこに行ってしまうのかという瞑想に費やします。」(P63)という文章は、人はどこから来てどこに行くのかみたいな哲学的な問いは聞いたことがあるが、それをもじった金は〜というのは哲学的なものが、一字変えただけで一気に俗的なものに変わったこともあって、ちょっと笑った。
 それからこれも神話とか、それに何かしら感じる部分があったとかそういうのではないのだが、チェコ人の精神科医のスタニスラフ・グロフは『もう何年もLSDを用いて患者を治療してい』(P125)るなんて、さらっととんでもないことが書かれていないか!そう思ってしまったから、どうしてもつっこみを我慢することができなかったので、とりあえずそのことを書けてすっきり(笑)。
 ただ、そこでの誕生の再体験において子宮内の胎児であるときは「私」というものはないが、誕生する直前の子宮のリズミカルな動きが始まると、不安が生まれ、「私」が生まれて、誕生すると「光」が、孤独を和らげる他者である「光の世界」(神?)が意識に生まれるというのはちょっと面白いな。
 ブッシュマンというアフリカの狩猟部族の狩猟では、毒をつけた弓矢でエランドの皮膚を傷つけ、その獲物が死ぬまでの一日半を、色々あるタブーを守りながら、肉となり自分の生命になる動物の死に参加するという「儀式」という側面がかなり全面にでているその行為は、神聖さがあって印象的だな。
 あるハンターの儀式的な行いと、サムライの復讐の話を絡めて、「非個人性」という同じ根があることについてみたいな、こうした異なる社会の異なる習慣、全くつながりのないところから同じ根があることを示し、人間の共通性を見るような話は面白いな。
 現代社会では、例えば割礼などの痛みを伴う通過儀礼がなくなったことで、子供から大人になったこと、変わったことを男性が意識することが遅れる。その点、女性は初潮の経験や妊娠といった肉体の変化によって、そうした自分が大人や母に変わったことを自覚させる。そういった点も女性のほうが大人びている理由にも繋がるのだろう、しかしそうした痛みを伴うような通過儀礼があった社会では、男性のが幼いなんてことはない(なかった)のだろうか、そこのところ少し気になるな。
 スペイン人から馬を手に入れて、大平原での大掛かりなバッファローの狩猟が行われるようになったという環境の変化で、それまでの植物神話からバッファロー神話へと神話が変わって言った、そうした環境による神話の変化も興味深いな。
 『人々が一つの世界を持った砂漠にいたら、ただ一人の神の観念を持つかもしれません。しかし、地平線はおろか、十ヤード、十二ヤード先のものはもう見えないようなジャングルのなかでは、とうていそんな観念は持てません。』(P224)だから植物が繁茂して見えない場所では神でなく、神々になるということには、砂漠だから一つの神にという言説は聞いたことがあったが、○○だから神々にというのは聞いたことなかったが、今回それを聞いて、神々の場合のことを考えていなかったことをはじめて意識したし、また熱帯雨林を例にした説明に納得した。
 どこの神話でもそういうことがあるようだが、聖書でも神が人を作ったが、アダムの息子たちが妻となる女を見つけた。そのように神はある集団、特定のグループを作ったが、その外の世界はまた別の出来事によって存在しているという、そうした話はちょっと面白いな。
 それから対談中(251ページあたりから)にジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」の話が出てきたが、「訳者あとがき」を見て最初期の評価されていない頃から「フィネガンズ・ウェイク」の意味を読み解こうと研究をして、それに成功したというお大きな成果を挙げた人だということを知る。
 太陽を目指して落ちたイカロスと、中間の高さを飛んで向こう岸にたどり着いたダイダロスの話の後に、『ヒンズー教の経典に、「そは危うき道なり、剃刀の刃のごとし」という言葉があります。これはまた、中世の文学にも現れるモチーフです。ランスロットは、捕われたギニヴィアを救出にいくとき、激流に掛かる剣の刃の上を素手と素足で渡らなければなりませんでした。なにか全く新しい冒険をするとき、新天地を開発するとき――それは技術開発でもいいし、独力で新しい生き方を始めるだけでもいいのですが――あまりに熱を入れすぎるという危険が舞っています。夢中になるあまり、機械的な細部をおろそかにする危険があるからです。すると落ちる。「そは危うき道なり」ですね。欲求や熱情や感情にしたがってなにかをするときには、精神をしっかりコントロールして、衝動に駆られて破滅する道を避けるべきです。(P281)と書いてあって、それを読んで本当の中道を保つのは「そは危うき道なり、剃刀の刃のごとし」という言葉が見事にあっていると思った。中道というと日和見的なイメージもあるから、どう表現すると本当の中道を言い表せるだろうとちょっと思っていたが、「そは危うき道なり、剃刀の刃のごとき道」という言葉を見て、そう表現すると、中道の困難さが伝わってくる。個人的に「中道」という言葉にしっくりくる表現に出会えたことがなんか嬉しいし、そう感じられたことで、何か今まで言葉が見つけられなくて胸にたまっていたもやもやとしたものが晴れていった。
 『神話は大変流動的なものなんです。ほとんどの神話が自己矛盾を含んでいる。ひとつの文化が、ある同一の神秘について見方の違う神話を四つも五つも持っていることさえあります。』(P299)神話は矛盾があるのが当たり前だという話は、へえと感心すると同時になんだかホッとする。
 『礼節とは、自分が生きている社会の秩序に対する敬意です。』(P402)そういう考え方はもっていなかったので新鮮に映るし、またなるほどと思える。
 『ペルシャの物語では、サタンは神を愛するがゆえに人間に頭を下げることができなかった。彼は神の前でしか頭を下げられなかった。神は途中でシグナルを変えていたのです。わかりますか?サタンは最初に与えられた一連のシグナルに徹底して忠実なあまり、それを破ることができなかった。彼の――サタンに心があるのかどうかわかりませんが――頭のなかでは、愛する神以外のだれにも頭を下げることができなかった。ところが神は、「消えてうせろ」と命じる。
 さて、地獄について書かれているもので知るかぎり、その苦痛の最もたるものは、<愛する者>(the believed)つまり神が不在だということです。ではサタンはどうして地獄に踏みとどまっていられるのでしょう。神の声のこだまを思い出すことによってです。「地獄に落ちろ」という声、それは愛の大きなしるしでした。』(P425-6)この物語はとても興味深く、面白い。この本のなかで話される様々な神話のエピソードの中でも一番と言ってもいいくらい、非常に印象的だ。