ガレー船徒刑囚の回想

ガレー船徒刑囚の回想 (岩波文庫)

ガレー船徒刑囚の回想 (岩波文庫)

カトリックの支配していたルイ14世治下のフランスで,17歳の時から12年間ガレー船の徒刑囚としてすごした一プロテスタントの記録(1757).服役中に52%が亡くなるというガレー船徒刑囚の苛酷な体験を回想した唯一の記録といわれ,当時のフランスの政治状況,宗教をめぐる状態,司法制度などについての貴重な証言をも含む.本邦初訳.

 ナントの勅令廃止後のプロテスタントに厳しくなっていた時代に育った、フランスのブルジョワ階級出身のプロテスタントユグノー)の著者は1700年16歳の頃に国外亡命をしようとしたところを逮捕されガレー船徒刑囚となり1713年29歳で英女王の働きかけにより釈放され、釈放後はプロテスタント国であるオランダに行き、そこに居を構えた。
 著者が逮捕された国外亡命を目的とした旅から、1701年から1713年まで17歳から29歳までガレー船徒刑囚となった時期について書かれたもの。釈放後のフランスが国外追放の命をだしたが、カトリックの神父たちが嫌がらせでなかなか出国できなかったというエピソードや、出国してからオランダにたどり着くまでの話、それから英女王に取りなしの感謝を伝え、またフランスは全プロテスタントを釈放したわけではなかったので、残りの囚人の釈放についてもフランスに要請するための使節団の一人として英国に行ったときの話など、釈放後の話も、そのどれもが著者が囚われていたことに直接関連する話だが、それなりに書かれている。
 著者は自分が信じている宗教の違いだけで、10代後半から20代のほとんど丸々を囚人として過ごしたというのは本当にかわいそうだ。そう感じていたので、釈放後の道中では長年の囚人生活という苦難を耐えた彼らは、プロテスタント諸国(だよね?)では歓迎を受け、そして著者が釈放後に定住することになったオランダでは、彼らがいくらか年金を貰えるようにはからってくれたという事実には安心する。
 当時は一般に監獄業務は民間委託されていたというの訳注には、へえ。そのため裕福な囚人が多額の金銭を払うことで優遇される、例えば支給される粗末なパンではなく、ちゃんとした食事、立派な食事をもってきてもらうようなことができた。他にも当時は国王の役人への棒給の支払いの遅滞は日常茶飯事だったというのは、現代日本に住む身だと公務員というのは給料遅配とかそういうものから一番遠い存在だからちょっと意外に感じる。
 亡命に失敗した著者と友人が、トゥルネーの牢獄に入れられた時に、同じ地の出身で友人の2人の男がしばらくして同じく亡命の失敗によって入ってきて、彼らの亡命失敗までの話も語られるのだが、亡命者を出国させるのを生業とする腕の良い案内人が細心の注意を払いながら移動させていたのに、彼らが亡命計画を知り合いに話したことで失敗する。それなのに捕まったら、棄教したら無罪とするという甘言にあっさりと応じてあっさりとプロテスタントからカトリックへの転向を決めて、自分たちのせいで案内人まで捕まったのに、彼が処刑されるのがわかっているのに、その案内人と共にトゥルネーまで連行されているときに、案内人がともに逃げようと言ってきても、何もしないどころかその頃にはもう改宗するのが待ち遠しかったというのはとんでもない奴ら。しかし、その案内人が結局自力で逃亡したというの良かった。その案内人が実際に縛り首に会っていたら後味悪すぎるエピソードだからな。
 しかしその直後、実際には改宗してもガレー船送りといわれて、改宗を拒否したという野を見て因果応報だと思ったが、その後イエズス会士の恩赦を求める獅子奮迅の努力によって結局改宗して恩赦をもらえたどころか、二人とも中尉まで貰ったということが書かれ、唖然。
 他にも同じ牢に入った、亡命失敗した5人の男女のエピソードも書かれているが、彼らは案内人に裏切られて失敗したが、その案内人が逮捕され、そいつが亡命を助けていたことへの証言を求められると、証言拒否も認められていたので誰かを絞首刑とすることになる証言はしないといって、それを裁判官や街の人が賞賛したというエピソードはなんかいいな。
 しかし逮捕されても、受難者と思われているからか、同じプロテスタントの人たちが面会しにきたり、移送されるときに大勢が見送りに来て励ますような言葉をかけたり、金銭的な援助をしてもらったり、囚人となった彼らを管理する人間に彼らが悪い扱いをされないように運動してくれたりとなにかと同宗の人に援助されることも多かったようだ。
 あるときガレー船団は、有名なフランスの提督ジャン・バルトの兄弟で、本人は漁師をしているピートル・バルトを水先案内人として雇っていたが、天気予報人としては実に優れた能力を持っていたがいつも酔っ払っていたため、あまり信用がなかった。彼があるとき、他の水先案内人は安全だといっていたが、彼だけは海が荒れると言って、彼自身は陸に残りたがったが許されなかった。
 そうしてガレー船が海に出たところ当初は天気が良く生みも穏やかで、ある入江に停泊することになったが、そこでも彼は夜明け頃に大きな嵐がやってくるから、ここでは危険だと忠告したがその意見は一笑に付されて、その地にそのまま停泊した。そうするとピートル・バルトの予告どおりに大きな嵐になった。そのようにして船ごと海に飲まれかねない事態になって、司令官は、それまでピートル・バトルの忠告を聞かなかったが事態がここにいたって実に賢明な忠告をしていたことが明らかになったため、彼にこの窮地を脱する作はないかと聞きにきた。それに対してバルトは毒づきながら、自分の命令に何も言わず操作してくれるならと差出口をされないように釘をさしたあと、一見危険で常識離れしているように見えるが最善という方法によって入江を抜け、港まで帰り着くという離れ業をやってのけた。そして港に付いた後、倍の給金を出すといわれても、「だめだ。付に千リーヴルくれてもいやだ。おれは頭がおかしいんだ。もう捕まらないぜ」といって、去っていった。
 この一連のピートル・バルトのエピソードはたった10ページ程度の話だが非常に印象的だし面白い!この飲んだくれだが船のエキスパートというキャラクター、小説のような鮮やかなエピソード、130〜140ページまでと短くまとめられているこの話だけでも、この本を読んだ会があったと思える。
 ガレー船で戦闘があったときに、船に大砲を撃たれて著者の周りの多くの囚人が死んだ。著者は幸運にも生き残れたものの大怪我をした上に気絶していたので、危うく死んでいると思われて海に投げ捨てられるところだったが、投げ捨てられようとして掴まれたところがたまたま傷口でそのおかげで声が出たので助かったというのは九死に一生どころではない、奇跡的な出来事だな。しかし次々に死体を生みに放り込んでいくので、ろくに生きているかの確認もされず、死んでいると見られたら、あっさり海に捨てられるというのはまだ生きているものも相当数いただろうということには、もし生きているのに死んでいると見られて海に捨てられたらなんていうことは想像するだけでゾッとする。
 富裕な家に生まれた軍人の家系に生まれた、ある一般の徒刑囚が外の仲間に助けてもらって脱走をしたときに、彼らと共に近くの教会の駆け込み場所(アジール)に逃げ込み、彼を直接監視していた番人は外の彼を助けに来た仲間による実力行使によって逃げられてしまったことによる罰を恐れて同じ教会の駆け込み場所に逃げ込み、それに加えて番人と行動を共にしていたトルコ人からその話を聞いた番人の上官である監視官も同じ駆け込み場所に逃げ込んだというのは笑った。たぶん、その土地で駆け込み場所といったらそこなんだろうけど、それでもみんな同じところに駆け込んでいるのは実話なのにコントのようで笑える。
 当時ガレー船が停泊していて著者も滞在していたダンケルクが一時英国の占領下(?)に置かれた。そのときプロテスタントを信奉していたことによる囚人の釈放が間近に迫っていたが、彼らを釈放するのを嫌がったフランスが密かに著者を含めてプロテスタント囚人をパリへと移送した。そのときパリまでの道中、彼らについていた監視人は紙面資格に命令どおりこなそうとするような融通の利かない人物だったが、命令書を確認させることを求めて少し見せてもらったときに目的地を読まれたことに気づかずにいたことで目的地を知っていることに驚いて、またある街に滞在しているときその街のプロテスタントの人(あるいは迫害を恐れて棄教した人かもしれないが)から直ぐに移送されることを注進されて、移動するために準備していたら、まだ命令を受け取っていない監視人から何でなのか聞かれて、移送されるから準備をしていると答えたら、そうした命令は受けていないといったが直ぐにその命令が下され、それが極秘事項だったこともあり、著者らが超自然的な能力があるのだろうと思っているのは、彼がちょっと頭の固い人物なこともありそのギャップがちょっと面白かった。
 ガレー船に乗せる囚人を港まで運ぶまでの費用は、囚人団の隊長が私費で払い、受け渡し場所で生きている囚人一人に対して20エキュ貰う。受け渡し場所に行くまでに馬車を使うと一人当たり40エキュ以上かかるため、「荷車ではこぶよりも、殺したほうがかれにとっては利益になる」という経済的な合理性が怖い、それが民間に委託されている(よね?)とはいえ、国家の命令として行われていた事実には昔のことでもゾッとする。
 最後の2章は「11 ガレー船の構造、航行法、乗員組織」と「冬季宿営中のガレー船徒刑囚の生活」という、ガレー船とはどのように運営されているや外に航海に出ない期間である冬のガレー船徒刑囚についてが書かれている、解放されるまでの物語とは関わりの薄い、付録みたいな章。
 「11 ガレー船の構造、航行法、乗員組織」では、ガレー船内でのそれぞれの地位ごとの食事の規定の分量やガレー船の乗員、どういう人が何人いるか、あるいは役職ごとの給金についての具体的な数字が書かれているので、当時の物価を知らなくてもそうした具体的に書かれている記述は興味深いし面白い。
 しかし囚人で悪党であっても著者らのような改革宗教信徒に対しては、必ずムッシュウをつけて呼ぶなど敬意を払っていたというのは、現在ではちょっと不思議に思える感覚だな。しかし、それが普通だったのがかつての階級社会だったのかな。