十七歳の硫黄島

十七歳の硫黄島 (文春新書)

十七歳の硫黄島 (文春新書)

内容(「BOOK」データベースより)

志願兵として玉砕の地・硫黄島で戦い、傷つき、壕の中で生き延びること約三ヵ月。硫黄島で死んだ仲間達を思い続け、六十一年目に初公開する少年兵の心と身体に刻まれた戦争。


 はじめにの前の扉で、著者が志願兵となった15歳当時の写真が載せられているが、その幼さの残る面立ちにはちょっとショックを受ける。
 通信兵として硫黄島に赴任して六ヵ月後に米軍上陸がはじまるが、この本は著者が以前より私的に書きとめていた手記(当時書いたわけではなく、戦後になってから書いたものだが)の中から米軍上陸直前から意識不明となって米軍の捕虜となるその直前までを描いた部分を抜粋(まとめ?)されている。著者は通信兵だから、直接的には戦闘に参加したというわけではないが、米軍の上陸地点が見える位置の送信所にいた著者が見た日米両軍の戦いの多くの場面だったり、飢えと渇きに苦しめられて、自らも重傷を負ったという極限状況の中でのエピソードが書かれている。
 熱気と悪臭が立ち込める豪の中で、水もろくに飲めずに生活しているという状況がまず戦闘が始まる前のスタート地点だということが、当事者の視点としてかかれると改めてそのやばさに目を剥いてしまう。
 米軍の上陸の前に既に栄養失調者が出て、一番食料に恵まれている場所でも三ヶ月の備蓄があるのみというのは、米軍の艦隊が島の周りを囲んで、補給の見込みがほとんどない状況でそれは戦闘が始まる前から傍目には既に絶望的な状況で、そんな状況で質量差がありながらも日本軍が奮戦したという歴史的事実に改めて驚く。
 米軍の上陸が始まる前からそんな状況で壮絶だと思っていたが、いざ戦闘が始まって死屍累々、重傷者多数で勝つ見込みも清浄な空気も水も食料もなく、武器も十分あるとはまかり間違ってもいえないという底のない地獄というような、死の世界に片足どころか半身、いやそれ以上浸かってしまっている状況で。玉砕して勇壮に、簡単に死ぬことすら許されずひたすらにゲリラ的攻撃で相手に出血を強いることが、死ぬより辛い生を生きることが、求められていることを見ると、最初に壮絶だと思っていたことですら生ぬるいものにすら思えてきてしまうということには恐れ慄いてしまう。
 そんな絶望的状況で米軍上陸後しばらくは無線が通じたから、やるべき任務があることがわずかながらも救いがあったようだ。たしかに、やるべきことがない中でそんな地獄の中に取り残されたらただひたすら苦しみしかないものな、やるべきことがあれば多少なりともその任務を遂行することで自分を幾分か誤魔化せるものな。
 摺鉢山に星条旗が掲げられた後(例の有名な写真が撮られた後)に、摺鉢山の上に2回も日章旗が掲げられたが、そうして日章旗が掲げられたのをみた著者らは士気が一変するほど大いに上がったということだから、今までそうした拠点の取り合いっこっていたずらに犠牲を増やしているのではないかなんてことをちょっと感じていたが、そうした象徴的な場所をとると大きな効用があるのだなと考えを改めた。
 一発撃ったり、軍刀などが光ったりするとその何十倍の銃撃・砲撃がくるため、周りの仲間を巻き込まないためにも、相手を撃つのも相当自重しなければならず、飢えと渇きの中で息を潜めていなければならないという厳しい状況。
 米軍人が落としたか、あるいは日本軍が近くにいるかどうかのテストとして置いておいた、缶詰のグリンピースの水煮の水が五臓六腑に染み渡り、久々の水の味を感じ美味かったと思ったというのだから、相当水分をとっていない状況であったということがこうした記述からも特にリアルに感じられる。
 砲撃により左太腿は貫通破片創になり、右手は人差し指、中指、薬指の三本の指を失ったという重症なのに、アメリカ軍の豪への火炎放射などによる攻撃から逃れるため動き回って、そんな状況でアメリカ軍から物資を盗むために行動していた、そうしなければならなかった(生きていけなかった)とは、この世の地獄というに相応しい事実である。
 著者ではないが、重傷を受けたときに知り合った人で、意識不明の隣人の腕が何度払いのけようと隣のその人の顔の上に置かれ、その人の顔を枕にしてしまっていてやむなくそのままにしていたが、その人は包帯から染み出て自分の唇まで落ちてくる意識不明の隣人の血をすすり、その血は『俺の五臓六腑を潤してくれたよ』なんてその人が言っていたというのを書いているが、それを恐ろしいと思う気持ちをほとんど感じず、仕方ないと思ってしまうほどの水不足の極限の状況下であることがそのエピソードから良く伝わってくる。
 少なくとも一週間、長ければ一ヶ月もちゃんとした水一杯分すら口に入れておらず、食事は乾燥した米を何粒か口に含んで終わりで、それすらもない状況になると我が身にたかるしらみを口にして生を長らえていたということが書かれているが、それでも生きていられる人間の生命力に驚くし、そんな状況を見ると人間の耐久試験と言う理由がよくわかる。最後はそんな既に身体に栄養が蓄えられていない状況から、飲まず食わずの日が10日以上続き、豚の餌に炭を入れていたことを思い出して炭をたべたりした。そうした状況で栄養が足りずに意識を失った後(それまで意識を失ったり死んだりしなかった時点で既に奇跡的だが)に、米軍に発見されて捕虜収容所に置かれたこともあって、幸運にもこの戦場から生きて日本に帰ることができた。