脳のなかの幽霊

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

切断された手足がまだあると感じるスポーツ選手、自分の体の一部を他人のものだと主張する患者、両親を本人と認めず偽者だと主張する青年など、著者が出会った様々な患者の奇妙な症状を手掛かりに、脳の不思議な仕組みや働きについて考える。分かりやすい語り口で次々に面白い実例を挙げ、人類最大の問題に迫り、現在の脳ブームのさきがけとなった名著。現代科学の最先端を切り開いた話題作ついに文庫化。

 書名からは幽霊は脳が生み出すというようなことが書かれた、オカルトを科学的に見てあばくという類の本にも見えるが、実際には脳の器質的な損傷によって生み出される幻が生まれることもあり、そうした場合に脳の損傷した部分から推察して脳のどういった部分がどのような役割を担っているかなどが書かれている。
 そうした損傷によって幻を見るなど、特殊な症例の患者に実験に協力してもらって、そういう患者を見て著者が考えた推論により、脳の機能・脳という器官についてという一般的で大きなテーマについて語っているがそのテーマが大きく、専門的な話が多いからちょっと読むのに難儀した。いやあ、著者がわかりやすく書いてくれているのだろうなということはわかるけど、そうした専門的な脳についての内容を説明されているがそれらの話が読んでいるそばから知識がぼろぼろと抜け落ちて、ほとんど記憶に定着してないなあ。それから注と本文を行ったり着たりしていたのもいまいちわからなかった理由の一つかもしれない。
 もうちょっと読みやすいのを期待していたということもあったし、脳について知りたいという関心があって読んだのならともかくそうした関心もあまりなく、評判の良いサイエンス本だからそれなりに読みやすいかなあぐらいで読んだのがだめだったのかなあ。それから朝の電車の中で、読んでいてそれなりの難しさだったから、強い眠気が襲ってきて眼が滑ったりしていたということも大きな原因だろうな。まあ、これで電車の中で読む本は難しくない本でなければならないという教訓を得たよ。でも、なるべくなら家であまり読む手が進まないその類の本を電車でそれしか読むものない状況で少しでも読みたいという気持ちもないではないけど。
 「序」をオリヴァー・サックスが書いているけれど、個人的な好みとしてはサックスのような特殊な状態になってしまった人のエピソードなど、その人についての記述が多いほうが好きだな。この本のように脳の特定部位の損傷の例として、個人特定しない症例をいくつか見て作った話が載せられるため、個々のエピソード的には実際にあったのだろうけど、一人の患者に絞っていないからそうした症例を患ったある個人の話といった魅力は薄い。しかしそうした特定部位の損傷の話から、脳の機能的なところについて解明された話や著者の推論の話をしていて、そこから人間の本性を特徴付ける、「人間とは何か」という古典的なテーマに迫っていくのは、それもそれで楽しいのだが、私は頭悪いからちょっとよくわかんなくなる。宇宙の壮大さ、複雑さにロマンを感じるように、脳にもロマンを感じるような人ならこちらのほうが好きかもしれないな。私としては宇宙にも脳にもロマンはそれほど感じないというかちょっと複雑になるととたんにわかんなくなってしまう人だから、前提となる脳の具体的な機能についての話になると眠気や退屈を感じてしまい、あまり理解できぬまま読みすすめて、面白いところに入っても前提がよく飲み込めていないから微妙に感じてしまったけど。
 しかし著者のラマチャンドランは鏡を使った幻肢痛の治療法を発見した人と、「はじめに」で知り、なにやらすごい人だったようでそこがまず驚いたわ。そして患者に協力して鏡を使って実験しているとき、偶然にも幻肢が消えたというエピソードについてもこの本の中で書かれていて面白かった。そして解説の養老孟司によると著者は幻肢に「科学的で具体的な説明」をはじめて与えた人でもあるらしい。
 精神病にまわされて、そこで珍奇な説明をされるような人でも脳に損傷があるということもままあるという話には、やっぱりそういったことあるのかと思った。
 脳梁に損傷のため左右の連絡が絶たれて、以前は右脳の潜在的な自殺傾向は左脳で抑制されていたが、それが解き放たれたため、左手が自分を絞め殺そうとしているという50年以上前の有名な神経科医の見解は荒唐無稽に見えるが、実際に右脳は左脳に比べて情緒的に不安定な傾向があることが知られているため、あながち的外れとはいえないというのは驚き。
 卒中で半身が麻痺した患者でも、あくびをする際には別の神経回路が腕の運動を支配するため、無意識に両腕を伸ばすという話は実際にそんなことがあるのかと驚いた。他にも歩いているときの腕の振りと身振り、手振りをコントロールするときの脳の領域は別というように、同じ腕を動かすにしても色々な領域に分散されていて、あることはできてもあることはできないということがあるのは興味深い。
 頭の中のホムンクルス、脳のどの部分で体のどの部分の感覚を感知するかについての脳内の地図。唇を感じる脳の部分の大きさにはちょっと驚き。
 腕をなくした人は、腕の感覚を感知する場所に、隣接する顔面領域の部分が食い込んでくるという地図の再配置が行われる。そのため顔に振れると顔と同時に失われた腕からの感覚も同時に覚えるようなことが起こるというのは想像も付かない感覚だ。
 幻肢痛は、脳内での再配置の際の小さな誤りで触覚がたまたま痛みの中枢につながってしまったために強い痛みが起きるのかもしれないという話にはなるほど。
 見えない場所――例えばテーブルの下――に手を置いて、友人に手をたたいてもらい、それと同時にテーブルを叩いてもらって、そのテーブルを1分ほど見ていると叩かれる感覚が机から生じているように感じ始める。そして、叩く役がテーブルのほうを手よりも大きな振りで何回か叩いてしまったとき左手がありえないほど「長くなった」「伸びた」ように感じた、そしてそのテーブルをかなづちで強打すると実験の協力者の指が強打されたような反応があったというような錯覚は興味深い。
 こんな簡単な実験からそうした錯覚が起きることからも分かるように、『あなたの身体イメージは、持続性があるように思えるにもかかわらず、まったくはかない内部の構築であり、簡単なトリックで根底から変化してしまう。身体イメージは、あなたが自分の遺伝子を子どもに伝えるために一時的につくりだしている外形にすぎないのだ』(P112)というのは目からうろこだし、そういう簡単な実験で身体イメージをゆるがせられるときかされると説得力がある。
 しかしこれが愛車や、子供やパートナーに対する愛や共感を理解する手がかりになるかもしれないという話をされると、実際どうなのだろうという強い関心がわく。
 ある円盤の周りに大きな円盤で囲むと、同じ大きさの円盤の周りに小さな円盤で囲んだときのほうが大きく感じる有名な錯視があるが、脳の「何」回路はそれに騙されても、「いかに」回路は騙されないので、それをつまんでくれといわれると、どちらの場合も同じだけちょうどいい具合に指を開いた。(両回路の説明は133-5ページあたり)
 そうした「いかに」回路が機能しているため、目は機能しているが見たものが意識に上らなく(見えなく)なっても、意識的にはなんとなく、あるいは勘という感覚だが、無意識的には意識に上らなくとも利用できているため、左側の視野が欠けている中で左側での棒の向きを正解したり、あるいは手を伸ばして鉛筆を正確につかんだり手紙の向きを正しく変えて、見えない投入口に差し込むようなことができるというのは驚く事実だ。
 視覚障害を持つ人の500人中の60人が、欠けた視野に幻覚が見える経験をしたことがあるという事実は予想以上の多さに驚く。まあ、そういった幻覚が見えても頭がおかしくなったとかではないということ。
 半側無視、注意を引かなければ、自分が片側だけ意識していなかったという事実にすら気づかないため、片側だけ化粧をしたり片側にある料理だけを食べたりする。そうした事実を意識したある人は、左側のものを見るのに、左を向いたり左側が見えるようにちょっと回転するのではなく、その人にとって「左側というものは存在しない」ため、右回転で340度くらいまわるというのは興味深い。それから、鏡で左側のものを見せても、左側の世界がその人には存在しないため物が鏡の中にあると思ってしまう、今まで当然のように鏡を利用してきた人がそんな状態になるというのはちょっとぎょっとするような症例だ。
 卒中を起こして半身が麻痺しても、その事実を無意識に受け入れず、実際には動かせるけど関節炎だとか、あるいは実際に腕を動かしているという幻を見るというような合理化、病体失認は、右頭頂葉の障害で引き起こされるが、それは左耳に冷水を入れると、一時だけ自分の病状を正しく認識し、その麻痺がずっと前から起こっていることも知っていた。しかし、それから時間を置くと再び合理化された状態に戻り、病体失認が続くというのは実に不思議だ。
 親しい人を偽物だと思うようになるカプグラ妄想、顔はしっかりと認識できるのだが、本来親しい人を見たときに感じる「あたたかさ」を感じないジレンマを回避するために、親しい人に似ているだけの偽物だと考えてジレンマを回避する。親しくない人にはそもそもそうした「あたたかみ」を感じないから、偽物だとは感じない。
 想像妊娠、現在は一万人に一人だが、かつては社会的重圧もあったことから多く1700年代には200人に1人だったというのは驚き。
 多重人格、視力やアレルギー、免疫などに違いが出るケースもあるというのは興味深い。
 過去と未来の自分にアイデンティティを認める、そういった機能ができたのは、過去の行いの責任を取ることは社会が個人を効率よく組み入れるのに役立ち、したがって私たちの遺伝子の生存や継続性を高める。といった理由付けができるというのはなるほど。
 しかし訳者の「文庫版に寄せて」にもあるように、15年前の著作にもかかわらず「古さが微塵もない」というのはすごい。私が単にそうした本をあまり読まないからそう感じるだけかもとも思わないでもなかったが、訳者さんもそういっているのだから実際にそうなのだろうとなんだか安心。