黄金旅風

黄金旅風 (小学館文庫)

黄金旅風 (小学館文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

江戸寛永年間、栄華を誇った海外貿易都市・長崎に、二人の大馬鹿者が生まれた。「金屋町の放蕩息子」「平戸町の悪童」と並び称されたこの二人こそ、のちに史上最大の朱印船貿易家と呼ばれた末次平左衛門(二代目末次平蔵)とその親友、内町火消組頭・平尾才介である。卓越した外交政治感覚と骨太の正義感で内外の脅威から長崎を守護し、人々に希望を与え続けた傑物たちの生涯を、三年の歳月をかけて、壮大なスケールで描いた熱き奔流のような一千枚!「飯嶋和一にハズレなし」と賞される歴史小説の巨人が描いた、一級の娯楽巨編。


 ここしばらく、数冊に渡るシリーズとかではなくとも500ページくらいの長めの小説を読むのが億劫になってしまっていたから、結構前に購入してずっと積みっぱなしになっていたが、電車移動中に読む用にしたら捗って数日で読了できた。
 江戸時代初期、寛永5年から10年(1628〜33)という寛永12年の日本船の渡航禁止を申し渡される直前の時代の長崎が舞台となり、日本人による海外交易への締め付けが厳しくなり、いわゆる鎖国にいたる直前の、近世以前における日本で最も海外交易が盛んだった時代からいわゆる鎖国時代の間の端境期、海外交易黄昏の時代を描く。
 オランダは占領した台湾・安平で高い関税をかけていたため、そこで交易をしていた長崎代官で海外交易商人の末次平蔵がそこに出兵させるという話から物語ははじまる。
 海外(台湾)に領土的野心を持つ大御所秀忠と竹中ら何人かの大名たちや末次平蔵、そしてそれを海外交易の妨げになると危険視する末次平蔵の子で、彼が謎の死を遂げた後に当主となった末次平左衛門。また、海外への領土的野心を危険視することは平左衛門と代わらないが、海外貿易についても危険視する将軍家光。
 大御所秀忠の死亡と、末次平左衛門が密かに(海外出兵のための)資金を溜め込んでいた様々な証拠を収集していたこともあり、竹中は失脚して、海外出兵により交易ができなくなりあるいは逆に南蛮人から長崎を襲撃されて、長崎という町が死ぬことは避けられたが、将軍家光の政策、それまでの政策の流れからは逆らえず日本人による交易の時代は終わりを告げることになる。それから、末次平左衛門は、竹中失脚後にその配下が長崎襲撃したときに、「讒言」の首謀者として狙われて銃撃されて重傷を負ったが、結局一命を取り留めることができた、ということでいいのかな。
 海外での話は最初の台湾出兵くらいしかないけれど、竹中らが計画している出兵話と絡んで海外の地理があれこれとでてきたり、あるいは海外の日本人町の話とかそうしたつながりからの末次家は情報網を持っていることを見ると、当時の日本人がそれまでにない規模で海外に進出していたことがわかり、そうした当時の海外の日本人町と盛んな貿易という情報は知っていてもそうした物語だったり、それに関連したエピソードは読んだことがなかったので、そうした話が読めたのは良かった。それに物語が外国のことにまで深く関連しているほど広がりがあるのは、いいね。
 しかし飯島さんの主人公は、戦後日本的な絶対反戦思想みたいな人が多いから、なんか作者の意図・主張が感じられるのと、現代的な視点から見て、あれこれ他の登場人物を裁いている感じがするのでなんかいまいち純粋に楽しめないことが多いなあ。
 それからやる夫スレとかの歴史系の作品を見て気づいたのだが、個人的にはもっと現代的な感覚とはまるで違うような人が結構いたほうが好みというか面白いと感じるけど、小説で、文章でそういう人を描くのは難しいのだろうな。
 まあ、そういう好みもあって現代的な人物の型にはまっているように感じてしまっているように見えるのはちょっとと思ってしまうのかもな。本作の主人公である末次平左衛門はまるっきり無私で民衆に尽くして、現代的な感覚・視点をもつリーダーという現代にいて欲しいリーダーを書かれているという感じがするしな。まあ、別に彼がキャラとして嫌いと言うわけではないのだけれどね。
 冒頭の描写でジャンク船とガレオン船の折衷型って当時あったことを知ったが、よく考えてみれば、そうして改良するのは当然なことだけどなんか新鮮だ。ジャンク船、各部屋が区切られ密閉されているので1箇所壊れたくらいでは船は沈まないが、その分だけ空気の循環悪く空気がよどみやすいというデメリットがある、船の違いというのは良く分からなかったので効した説明はちょっと面白いな。
 末次平蔵、いくら南蛮貿易をしているトップクラスの商人とはいえ、その総資産が40万石の大名を超えるほどというくらいに強い財力を持っていたというのは想像以上だったし、それを聞くと規模の大きさも想像以上に大きかったことも分かる。
 黄色の糸をつむぐ東南アジアの蚕、なんとなく普通の白いほうが良質なんていうイメージがあったが、その金色の糸の質も優れている(別に質に色は関係ない)のね。
 そして西洋馬には体格に比べ足が細くていためやすいという欠点があるなど、同じ馬ということで単純に大きさの違いくらいしか見ていなかったけど、そうした違いもあるのね。
 末次平左衛門は、奉書船制度に代わったことで、長崎からの海外渡航は末次船しか許されなくなったことで他の海外交易商人が飢えないよう、彼が愛した外に開かれて日本と海外が和合した長崎を守るために、自家のためだけに船を出さずにあえて他の長崎町民からも以外にも資本銀を募ったというのはいいエピソードは好きだなあ。この頃の長崎はまだ唐人や南蛮人も雑居――というか、唐人屋敷・出島内に移動を制限されていなかっただけで、それなりに○○人町みたいな感じの住み分けはあったろうが――していたくらいに国際色豊かだった。
 しかし薩摩の琉球貿易は、本来は薩摩国内で消費することに限定して認めたものだったというのは知らなかったので驚きだ。ただ、薩摩国外にださないように取締りをするどころかむしろ出すことを奨励するむきすらあったことから有名無実のものとなってしまっているようだ。
 既に棄教していたキリシタンを多く殺害していた実行犯たちに対して、平尾兄弟が切り込んでいって12人を打ち倒したシーンは鮮やかで格好良くていいなあ。それだからこそ、平尾兄弟の兄である平尾才介は長崎の代官末次平左衛門と幼馴染だし仲がいいので、彼は平左衛門と共に、長崎に暗い影をもたらした長崎奉行である竹中相手に立ち向かうのかと思っていたので、火事で救出作業中にあっさりと退場してしまったのには呆然としてしまった。
 腕の良い鋳物師である真三郎は、依頼されてそうとは知らずに(隠れキリシタンのためのものと思って)踏み絵の聖母子像を作ったが、それがあまりに上手にできているので、それを踏めずにつかまるものが多数出た。そうして自分が作ったものが思わぬ威力を発揮したことで彼は密かな衝撃を受ける。そんな折、真偽不明の長崎に潜入しているパードレの噂を聞き、そのパードレになりすますことで、彼自身は現在キリシタンではないが、それを捨てきれないものを救うことで、そうした意識は表面化していないかもしれないが、踏み絵を生み出し多くの人間を死に追いやってしまったことの贖いか、それともそうすることで自分をも救おうとしたとも感じられる。
 真三郎は子供を亡くした親にその亡くなった子を写実的に似せた像を作り、それを景色が良い場所にとキリシタンの学校があった場所に置いたために、キリシタンの嫌疑がかけられて暑い蒸気とガスが充満している谷の中に放置されて殺されたが、彼を長崎につれてきたがその才能を妬んでもいた道助は、彼のその行いのせいで連座させられたが、それでも最後に妬みやらという気持ちも捨てて和解して、共に眠りながら死んでいったシーンはきれいだ。なんとなく手塚治虫火の鳥」の何編だったか忘れたが、恋人が生き埋めにされて死んでいくというシーンを連想させる美しいシーンだと感じた。
 才があるの真三郎とか人に慕われ、胆力のある平尾才介があっさり死ぬが、それには人の命の儚さを感じさせるし、それを描こうとしているのだろうな。才介のように物語の半ばであっけなく人生の幕を閉じることをよぎなくさせられたり、真三郎のように才介・平左衛門と子供の頃からの知り合いだけど、物語の本筋に関わりなく逝ってしまったりしたことが描かれたことで、末次平左衛門が関わっている本筋の物語は大きなことで色々な人間が関わることだが、それも一つの物語で、他にも人の数ほど様々な物語がある、長崎にも人の知らないストーリーがある、そういった意味での物語世界の豊穣さというのかな、彼らを描くことで、そして本筋とはあまり合流させないことで、この時代(江戸時代初期)の長崎という舞台の様々な側面や物語を垣間見ることができる。