生きていく民俗

生きていく民俗 ---生業の推移 (河出文庫)

生きていく民俗 ---生業の推移 (河出文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

海の民、山の民、川の民、村の民、町の民。それぞれの職業との関わりとその変遷、またお互いの交流・交易のありようとその移り変わりの実態を、文献渉猟、徹底したフィールド調査、そして刻明な記憶をまじえながら解明していく、生業の民俗学の決定版。差別・被差別の民俗学とも深く結び着いてゆく。

 先日、「忘れられた日本人」を読んでとても面白かったので、早速同著者の別の本を読了。
 鹿児島宝島、この島には畑の割替制度があり、明治18年の地租改正でそのときに耕していた畑がその家の所有地に定まるまで、くじ引きで耕す畑を割当てて耕作する習俗があった。そしてこの島では金具類と材木以外自給でき、一家の戸主は大工の技術を身に着けなければならないとされていたため、家も材木があれば自分たちで建てていた。著者が訪れたときも100戸ほど(地租改正前で64戸+その後に分家した30)の島だが、大工技術を持つ人が50人、造船技術を持つ人が17人いた。造船技術を持たない人は、船を作ってもらう変わりにその人の畑で働き、またこの島には1軒、鍛冶屋もあったが、鍛冶屋に打ち直してもらうときもその時間の2倍を鍛冶屋の畑で働くという交換労働がなされていた。そういう金銭を必要としない、(おそらく本土にも昔は分布していたであろう)村が江戸時代・明治初期まであったというのは興味深い。そして、そうした本土にも昔は分布していたであろうというような説明を読むと、金銭が使われる以前の村の生活も想像することができて嬉しい。
 この宝島の話とかは、昔の村とか集落とか聞いて、イメージするようなものではないから、こういった色々な変わった風習がある村とかの話を知ると、想像力に幅が出るというか、昔をイメージするのに、イメージする昔が豊かなものとなるからなんか好きだな。
 テグス、中国の風蚕の体液を処理してつくったもの。生糸を太く丈夫にしたものだが、弾力性があり丈夫だったので、中国から来た薬の包みをくくる紐に用いられたものを漁民が釣り糸に利用された。
 貧しいものが僅かばかりのものを贈って、お返しを貰う、それは等価値のものと限らなかったため『そういう意味からすれば、このような行為は、交易と言うよりは贈答という方が適切であるかと思う』(P42)。「贈答」という観点はなかったので、ちょっと目からうろこだった。行商は始めはそうやって物乞いの一つの形式として発展した。
 日本には、比較的自給度が高い温暖多湿な住民と、交易を主としなければない寒冷・山間・海岸といった地に住む住民の二つに分けられる。そして、交易を必要とするほうの生活のクオリティが一般に低く、単なる交易でなく物乞い的色彩を持つことも多かった。
 牛馬に乗せることで、地方の物資が中央につき、地方の文化が中央に到来することは容易だったが、そうした牛馬は中央で売られるため片道通行で、中央の文化が地方へ広がりづらかった。
 古い家なら屋敷林を仕立てて、その立ち木を建築材に利用したとあって、「屋敷林」なる言葉ははじめて聞いたが面白いな。名前もそうだし、そのために林を持っていたというのも。
 江戸時代、交換経済を主としたものは、おおよそ漁業に従事している人間が100万人、林業が200万人、寒冷地に住み自給が難しい者200万、それに街に住むものと武士をあわせても合計1000万人程度で、それ以外の約2400万人は自給生活を主としていた。そのため当時の農民は自分で草履、草鞋、箕、籠、背負袋などなどを作っているので、労働時間の半分以上は手仕事をする職人でもあった。
 鉄砲伝来で野獣が減り始めて狩猟だけでは生活がなりたたなくなり、狩猟集団は解体されたことで定住して農耕を行うようになったり、あるいは一般の百姓は鉄砲をもてなかったので野獣を追い払うために雇われて村々に分散して住むことになった。
 鍛冶屋・紺屋・桶屋は村にとって必要な職種なので、農家に迎えられて定住したものが多く、村の中心に住んでいるものが多い。
 食い詰め、落ちぶれて河原者になる人が昭和のはじめ頃までなお多かったという記述を見て、平安時代とか古代から中世に賭けて存在した集団だと思っていたので、ずいぶんと最近まで長い間そうした習俗が続いていたことに驚く。
一年に一回振売りに来る行商来るのを待たなければならないという類の品物が多かったという事情を聞くと、昔の人が者を大切にしていた理由が良くわかるわ。それに江戸時代でもそうだったんだから、それ以前はなおさらね。
 かつては庶民はどこで垂れ流しても良かった。高足駄はそういう汚物のとばっちりを受けないように用いたもので、「餓鬼草子」(平安末〜鎌倉初期)でも空き地のような場所で脱糞糞尿しているが、その時みな高足駄をはいているのが描かれている。街中の汚物を避けるためにハイヒールが作られたという話は知っていたので、一瞬日本でも平安時代には同じような理由で高足駄がはかれていたのかと勘違いしたが、ググって見たらどうも排便の際に自分の足とか着物にかかんないように履くもので、常に高足駄が日常にはかれるというものではなかったようだ。うーん、ハイヒールのエピソードを知っているが故にそっち方面で考えて、排便するときだけの履物と言う考えが頭に浮かばなかったな。
 町人でも何もしないで楽に暮らせることが、人間の理想とした生き方であったと書かれているけど、現代でもそうした理想は誰しも持っているものだと思うが、そうした考えを持つのは罪であり、悪として、人格攻撃をも辞さない勢いでケチをつけて自然な感情を弾圧する風潮があるのはなんか嫌だな。現実では少なくとも自分ではできない、味わえないことだとわかっていても、理想はそれであることを否定されるのはね。
 古代職業集団で朝廷に作成物を収めていた部曲の民だったが、朝廷が力を失うことで、その技術・作品を売って生活を立てることを工夫するようになる。
 農村は基本的に自給を原則としていたが、完全には自給できず、専門の商人が公益するようになり、市の付近や村の中に街を作り、そこで職人・商人は専業化していく。その商人は部曲の流れを汲むものが多く、特権を守るため貴族・社寺と特別な関係を持ち、座や仲間を形成して、家職となることでより専門化して、技術も高まる。
 日本の様々な職業についてや、そうした職業が戦後あたりまでの長い期間にわたる時代の流れによる様々な変化が書かれている。